眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

北里大学医学部麻酔科  外 須美夫 著

第3回 麻酔の告白期

静脈麻酔薬と吸入麻酔薬

全身麻酔に使われる麻酔薬には,静脈内に投与する静脈麻酔薬と,吸うことで麻酔がかかる吸入麻酔薬がある。投与する経路は異なるが,静脈麻酔薬と吸入麻酔薬はともに脳に作用して麻酔効果を発揮する。二つの大きな違いは,静脈に投与された麻酔薬はすぐに脳に到達するので瞬時に麻酔がかかるが,吸入麻酔薬は肺から血液に移行してから脳に達するので麻酔がかかるのにやや時間がかかる点である。また,吸入麻酔薬は亜酸化窒素を除けば独特の強い臭いがあるが,静脈麻酔薬には臭いはない。

大人の場合,麻酔を開始する前に静脈血管に注射針で点滴ルートが確保される。そのため,麻酔の導入は静脈麻酔薬を用いることが多い。そのほうが,患者さんはなんの苦痛もなく知らず知らずのうちに眠ることができるし,眠る前に臭いを嗅がなくてすむ。ただし,小児では,今でも吸入麻酔薬で眠らせてから点滴を確保することが多い。

以前は大人でも麻酔の導入を吸入麻酔薬でよく行っていた。吸入麻酔薬は麻酔がかかるまで時間がかかるし,麻酔がかかり始める時期に興奮期という不安定な時間帯もある。それでもしばしば吸入麻酔薬で麻酔の導入を行っていた。その理由の一つに,一度静脈内に投与した麻酔薬はもう二度と回収できず引き返すことができないが,吸入麻酔薬は肺から出て行くので途中で困ったことがあれば,吸うのをやめることで引き返すことができるといったことがある。静脈麻酔薬は投与後すぐに昏睡状態になるため,人工呼吸が必要になる。人工呼吸のための気道確保は麻酔のもっとも基本的な技術であるが,気道確保ができなければ,あとに戻れないから大変なことになる。吸入麻酔薬では気道確保ができることを確認しながら先に進むという手順を踏むことができる。また,呼吸が不安定な時期の気道確保の技術を習得することも吸入麻酔で導入していた理由の一つであった。

しかし,最近の静脈麻酔薬は代謝が速いため,たとえ気道確保が困難になっても薬の効果が切れるまで待てばよい。また,気道確保のためのいろんな器具が開発されているため,それらを使いこなせば気道確保はさほど困難ではなくなった。さらに,気道確保ができているかを客観的に連続的に知るためのモニターが今ではどこの手術室にも備えられている。

麻酔薬の力

というわけで,最近は大人を吸入麻酔薬で導入することは少なくなっている。もちろん,施設によっては吸入麻酔薬を導入に使うところもある。現在最もよく使用されているセボフルランという吸入麻酔薬は興奮作用も少なく,スムースに眠りに入ることができる。興奮期もほとんど見られず深い麻酔に到達できる。セボフルランは本邦で開発された吸入麻酔薬であり,現在の欧米中心の医薬業界が日本市場を席巻する中で稀少価値がある。

二十数年前は,吸入麻酔薬はほとんど欧米から輸入されていた。興奮作用も強く,それらを吸わすと大暴れする患者さんがいた。ベッドから起きあがろうとする患者さんは珍しくなく,手術室の看護師は患者さんの身体を抑えるために腕力を要求され,か弱い乙女はときに傷ついていた。これは誇張された話しと思うが,麻酔の導入中に起きあがり,手術室から走り去っていった患者さんもいたという。

今はもう使われなくなったが,エンフルランという麻酔薬を吸わすと,興奮期の途中に告白期みたいな時期があって,隠しごとをしゃべり出す患者さんがいた。日頃,立派に見える紳士や淑女が耳を疑うような言葉を発する。本人はもちろん覚えてはいない。無意識下の抑制された世界が麻酔で顕現されるのである。

ある日,妙齢の婦人から麻酔導入中に「先生が好きです」といわれて嬉しくなった。不思議に思い,「誰をですか」と聞き直したら,「K先生が大好きです」と外科の先生の名前をいわれた。守秘義務のため,もちろんK先生には教えなかったが,麻酔導入中の意識が薄れ行く中,会話が成立したことに驚いた。それ以来,麻酔薬が投与された後はなるべく質問しないことにしている。




Copyright © 2006-2007; Medical Front Int. Ltd. All Rights Reserved.