眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第28回 脳外科の麻酔2

徹夜の手術

私が麻酔を始めた頃の脳外科手術は,長時間手術がほとんどだった。脳外科手術は長時間手術の代名詞みたいなものだった。だから脳外科手術の麻酔があたったときは,病院で夕食を摂ることになるし,その日のうちに家に帰れないことも覚悟しなければならなかった。麻酔を始めて1年後に私は結婚し新婚旅行に行かせてもらったが,夜遅くに旅行から戻り麻酔科医局に電話を入れ,翌日の麻酔がどうなっているかを訊いてみた。毎日の予定症例の麻酔担当者を誰にするかを決めるのは,チーフの仕事である。先輩のチーフはたぶん新婚旅行から帰ってきたばかりの私を気遣って,明日はフリーか短時間手術の麻酔をあてているだろうと,私は勝手に想像していたが,なんと脳外科の麻酔があたっていた。新婚旅行から帰って次の日に私は脳外科の麻酔を担当し,徹夜の手術となり,妻は待てども帰らぬ夫に将来に対する一抹の不安を覚えたに違いない。いや,妻は所帯を持って1日目から帰宅しない夫に対して,麻酔科医の妻としての覚悟を決めたのかもしれない。脳外科手術の麻酔は,先輩チーフからの心遣いのプレゼントだったのかもしれない。

昔の脳外科手術は,脳腫瘍の摘出に対して時間を惜しむことなく使っていた。どんなに長時間に及ぼうと全て摘出するという執念のようなものがあったように思う。術者は交代することなく,徹夜の手術を行っていた。さすがに翌朝になると少し休憩を入れたりしていたが,それでも最後まで責任を持って,自らの力で解決しようと手術に臨んでいたように思う。長時間になる理由は多くが出血との闘いだった。ちょっと進んでは止血操作に時間をとられる。その繰り返しが長時間になっていった。どんなに長時間になろうと腫瘍を取り残すことがないようにするのが手術の成功を意味していた。しかし,長時間手術の結果はあまりいいものではなかった。むしろ長時間手術になるほど後遺症の発生率が上がる。脳の手術を続けるということは,手術のために脳を外気に晒し,脳の一部を圧迫し続けることを意味する。悪い部位を切除するために,正常な脳をよけながら進まなければならない。かりに腫瘍をすべて摘出することができても,正常な脳に障害が起きる。手術後に意識が出なかったり,混濁したり,麻痺が残ったりと,いろんな後遺症が残ってしまう。

最近の脳外科手術

最近は脳外科手術が格段に速くなった。出血量も格段に少なくなったように思う。摘出できる腫瘍は徹底的に取りに行くが,危険な場合はある程度残存しても手術後の化学療法や放射線療法で成果を上げるようにする。外科医が自分の腕だけで解決しようとするのではなく,あらゆる治療方法を駆使して最大限の効果を得るようにする。手術は全能ではなく,多様な治療戦略の中のひとつだという考え方である。医療の目的は腫瘍や病変を摘出することではなく,病気を治癒することであり,治癒が不可能ならば,後遺症や副作用で苦しませずに生命の質をできるだけ維持することであるという基本的な考え方に基づいている。

最近の技術革新は手術内容を大きく変えつつある。とくに画像診断技術の進歩はめざましい。外科医は術前に病変の部位と形状を立体的かつ正確に確認することができるようになった。体内の何処にどのような貌をして腫瘍や動脈瘤が潜んでいるかが3次元的に手に取るようにわかるようになった。さらに最近は,ナビゲーションシステムを利用して手術が行われるようにもなっている。手術前の画像所見から病変の正確な位置を捉えて,手術中にどの場所にメスを入れて,どの方向に切り進んでいけば良いかをコンピュータ処理した大掛かりな装置が教えてくれる。レーザー光線が道筋を教えてくれるのでそれに従って進めばよい。科学の進歩を過信してはいけないが,外科手術の確実性と安全性の向上に技術革新が果たしている役割は計り知れない。

覚醒下手術

脳外科手術の中で特殊なものに覚醒下手術がある。手術の途中で全身麻酔を中断して覚醒させる。普通の手術では途中で覚醒することなどあってはならないのだが,あえて覚醒させる。手術中に覚醒させて患者に苦痛を与えたらそれだけで訴えられかねない事態であるが,あえて覚醒下で手術を行う。なぜ覚醒させるのか。意識を出して,これ以上進んでよいのか,脳を切り取っていいのかを患者さん自身に,患者さんの脳に,確認してもらうためである。どんなに画像診断技術が進んでも,腫瘍や病変の位置を明確に示すことができても,近接する脳がどのような働きをしているかを画像で正確に知ることはできない。脳の働きを患者さんの応答で確認しながら,脳の切除範囲を決めていく。そのために覚醒下手術を行う。とくに言語中枢の近傍を手術する場合に覚醒下手術が行われる。手術後に失語症にならないようにするためである。

脳には地図がある。その地図には,地球儀に描かれた世界地図のように,野があり,帯があり,丘があり,島がある。脳には橋もある。地球に核があるように脳にも核がある。海馬も棲んでいる。脳地図に描かれた領域はそれぞれの役割を持っている。全身の感覚に対応する野,全身の運動に対応する野,鎮静に対応する核,愛や怒りに対応する帯,記憶に対応する島などが脳地図に描かれている。大まかには脳の原図というものがあり,原図から特定の領域が破壊されるとどのような脳の機能が障害されるのかがわかっている。しかし,領域内の細かい分布はわからないし,脳地図の個人差も大きい。だから,切除範囲の最終確認のために,覚醒した状態で脳の反応を見て手術範囲を決めていくのである。

覚醒下手術における安全確認とチーム医療

覚醒下手術の場合もまず通常の手術と同じように全身麻酔をしてから手術を始める。皮膚を切開し,頭蓋骨を切り取り,開頭する。そして,目的の場所に操作が近づいたところで,一度覚醒させる。覚醒させるといっても,脳は露出しており,頭部は固定されている。患者が頭を動かすことはできない。言語機能を調べるために,気道を確保していたチューブをいったん取り出さなければならない。安全装置の一つを外さなければならない。麻酔科医にとってはストレスのかかる場面である。呼吸がおかしくなったらたちまち生命の危険に陥る可能性がある。麻酔科医は麻酔の深度や気道の状況など細心の注意を払って管理しなければならない。患者さんは痛みを感じないように皮膚には麻酔がされている。しかし,それだけでは十分とは言えない。鎮痛薬を上手に使って,なお覚醒させなくてはならない。脳には局所麻酔はできないが,脳は自分の痛みを自覚しないから切られても大丈夫である。というか,脳は触られても触られている感じを自覚できない。脳自身はまったく原始的で無防備な臓器なのである。

覚醒下の手術は1時間以上に及ぶこともある。言語療法士が手術室に入り,患者の枕元で質問を行い,言語機能をチェックしながら手術が行われる。脳外科医が脳を刺激し,あるいは脳から信号をキャッチし,その部位を手術しても大丈夫かどうかを決定する。患者さんは,名前や住所や信号の色などだれでも答えられるような質問をなんども受け,答えを繰り返す。ときに簡単な計算をさせる。質問が気に入らないからといって怒ってはいけない。性格を荒げる脳部位だと判断されて切り取られるかもしれない。あまりに簡単な質問なのでいちいち答えるのがばからしくなって黙り込んだらもっと大変である。失語症の脳部位と判断されるかもしれない。

覚醒下のタスクが終わると再び全身麻酔に戻る。そのために気道確保用のチューブを再度挿入しなければならない。これがうまくいくかどうかが覚醒下手術の麻酔管理で最も気を遣う場面である。なにせ,頭部と顔面は固定されており,脳は露出し,頭部は清潔野になっているので,限られた姿勢でいつもと逆の方向から気道確保を行わなければならない。意識があるので患者さんにも協力してもらってチューブの挿入を行う。

覚醒下手術はリスクを背負っての操作であるが,麻酔科医はこれがだめならあれでやるといった選択肢を多くもって臨むことが大切である。麻酔科医は起こりうる状況に柔軟に迅速に対応できなければならない。脳外科医やコメディカルとのコミュニケーションと協同作業によって,刻々と変化する状況を把握して,最善の対処を行っていく。命あっての脳の働きであるから,生命の危険が生じたら潔く撤退することも大切である。その判断は麻酔科医に任されている。脳外科医が自分の腕だけが患者を救えるのだという執念で長時間手術を敢行しても結果的に患者の幸せにつながらないことがあるように,麻酔科医も自分の腕だけで患者の安全を図るのだという執念はすてて,患者さんもコメディカルも外科医も含めたチーム医療の力で患者さんの幸せにつながるようにしなければならない。

それにしても,最近は,徹夜が続こうが,泥まみれになろうが,自分が患者さんを救うのだ,自分が責任をもって患者さんの命を預かっているのだというような責任感や執念があまりに希薄になっているようにも思われて,それも気がかりなことである。


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