眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第23回 パイロットと麻酔科医

雪の中のフライトで青森へ

大寒が過ぎて,九州ではぽつぽつと梅の香りが漂い始めている。しかし,北国では本格的な冬はまだこれからという季節でもある。そんなある日,私は講演のため青森に向かった。この冬一番の寒波が日本列島を襲い,青森津軽地方に大雪警報が出て,着陸できない場合は引き返すという条件付きの出発だった。地上の吹雪とは関係なく雲の上は穏やかで,静かな水平飛行が続いた。そして,予定通り午後 8 時過ぎ,飛行機は青森上空に達した。しかし,大雪のため管制塔から着陸許可が得られず,飛行機は乗客の不安を乗せたまま漆黒の闇の中をしばらく旋回することになった。降りられるのか,引き返すのか,できれば降りて欲しいものの,無理な着陸はして欲しくない。雪原に散らばる機体の残骸と雪上に横たわる死体がふと眼に浮かんだ。

やがて,「滑走路の除雪が終わり着陸の許可が出たのでこれから降下します」という機長からのアナウンスがあった。飛行機は次第に高度を下げ,雲の中に分け入っていった。窓側に座っていた私は,それから着陸するまでの間,窓の外の眺めに釘付けになり,この世からあの世に向かう旅の途上にいるような不思議な感覚を味わった。分け入っても分け入っても白い雪。地上に向かって下降する飛行機の窓から雪が織りなす天上の白い廊下道をそこに垣間見たのである。

主翼のライトが前方を照らし,光線の広がりの中に降雪の断層が浮かび上がっている。切り取られた雪の層が白い絨毯となって広がっている。闇の中に真っ白い雪の絨毯が次々に織られていく。飛行機はまるでその雪の絨毯の上を滑っているようだった。それは銀河のようでもあった。私は銀河鉄道の夜ならぬ銀河宇宙の旅をしているような錯覚を覚えた。もうすぐ白鳥停車場や鷺の停車場が現れるのではないか。鳥捕りがいないか見渡してみた。するとふと,川に浮き沈みするカルパネルラが見えたような気がした。

橙色の光が現れ,雪の絨毯が途切れ始めたと思ったら,突然目の前に滑走路が現れた。飛行機は左右に揺れながらも吹雪の青森空港に無事着陸した。パイロットは雪の中でも目的地を見失うことなく下降し,暗闇の中でも定められた着陸地点に正確にランディングした。視界不良の悪天候の中での飛行は,電子制御された自動操縦によるものであろう。パイロットは決められたとおりの手順に従って操縦桿を動かし,飛行機は安全に着陸できた。しかし,パイロットの頭の中には,予期せぬ事態への対処法も数多く刷り込まれていたに違いない。ジェット旅客機の操縦桿を握れるのは,いざというときに電子制御に依存せず,総合的な状況判断ができる人間だけなのだと思う。

電子化,自動制御化の時代で

私たちの麻酔の世界も今,自動制御機器による操縦が始まっている。決められた通りの量と速度によって麻酔がコントロールされていく。体重や身長から麻酔薬の至適血中濃度や効果部位濃度を予測し,それに従ってプログラミングされた持続注入器が,決められた速度で薬物を体内に注入する。麻酔科医は諸条件を入力はするが,後は機械仕掛けの自動制御が始まる。そもそも飛行機の自動操縦に比べれば,はるかに幼稚な仕掛けである。プログラミングも幼稚である。薬物代謝や効果反応など個人差を無視した自動制御装置である。私たちは決して麻酔を自動操縦しているのではなく,注入量を素朴な条件下で自動化しているに過ぎない。

飛行機と人間は違う。飛行の安全のためには,自動操縦される飛行機自体に不具合があってはならない。飛行機はコンピュータに従って忠実に動いてくれなくてはならない。だから飛行機の整備は不可欠であり,そのために最善のチェック体制がとられている。しかし,私たちが操縦する麻酔の対象は患者さんである。患者さんが持っている不具合は様々である。心臓の異常や肺の異常など,飛行機でいえばエンジンや主翼の不具合を抱えたまま麻酔の飛行をしなければならないこともある。片肺飛行もある。予期せぬ突風や吹雪や雷も起きる。そんな中,機体を,患者さんを常に安定した状態に維持するためには,パイロットと同等の,いやそれ以上の危機予知能力と,回避能力と,対処能力が必要である。

麻酔科医は,離陸や着陸だけでなく,水平飛行の最中も,決して自動制御に任せて安心するのではなく,飛行機(患者さん)の発する声を注意深く聴くようにしなければならない。電子化や自動制御化の包囲網に,自分の脳までも制御させてはならない。電子化や自動制御の長所を生かしつつも,それらの盲点を分かってこそ,経験豊かなパイロットに引けをとらない麻酔科医になれるだろう。


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