眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第19回 産科の麻酔 ─ 帝王切開(1)

危険と希望に満ちた生命の誕生

出産の場面は生命の神秘であると同時に,妊婦と胎児にとっては命がけであるということを帝王切開の麻酔をするたびに思う。受精によって新しい生命が芽生え,子宮内で胎児として育てられ,期が満ちると新生児として生まれ出てくる。受精から誕生までの約 40 週は,あたかも地球上に生命が誕生してから現在までの約 40 億年の歴史を早送りでたどっているかのようである。原生動物のごとき精子と卵子の受精に始まり,受精後の細胞分裂の繰り返しから,魚類や鳥類や爬虫類にも似た胎芽期,胎生期を経て,霊長類へと次第に変化していく。やがて胎児は,人間の姿となって,子宮というほぼ完璧に保護された水の環境から,危険と希望に満ちた空気の世界に出てくる。

児の安全,母の安全のための帝王切開

普通の分娩では,胎児は子宮内から子宮口を通り,経膣的に生まれ出る。子宮の規則的な収縮に押されて,胎児はまず産道へ導かれる。子宮の律動的な収縮と子宮口の開大が連動し,大きな陣痛の力を得て,胎児はゆっくりと下降し始める。やがて,子宮口が最大に開き,頭部が産道を通り抜けると,肩から胴体が一気に押し出されていく。かつて精子が尻尾を振って入っていった子宮の入口から,今度は新生児が身体をくねらせながら出て行く。

子宮の収縮が弱かったり,胎盤の位置が悪かったり,臍帯血流が滞ったり,胎児の位置や姿勢に問題があったりといったなんらかの理由で普通の分娩ができない場合に帝王切開が行われる。母親の状態が経膣的な分娩に耐えられないときも帝王切開になる。帝王切開は,児の安全のために,母親の安全のために行われる。このまま妊娠を続けていては児が危険だから,あるいは母親が危険だから,帝王切開を行う。児と母親のどちらかに危険が迫っているので帝王切開をして児を娩出する。

帝王切開とは母親の腹部を切開し,さらに子宮壁を切開して子宮の中の児を娩出することである。人間以外の動物の自然界では帝王切開をすることはないから,分娩の過程で問題があると多くの動物が死産になるか母親の命が危険に曝される。だから,帝王切開は人間だけに与えられた貴重な医療の恩恵ともいえる。最近では,動物病院でペット動物にも帝王切開が行われるらしいが,それは極めて恵まれた動物たちといえるだろう。研究目的に動物を帝王切開することもあるが,それは胎仔を取り出して実験に用いるためであり,母親や仔の安全のためではない。だから,実験後の母親の命が顧みられることはほとんどない。

帝王切開の件数の上昇とリスク

最近,帝王切開の件数が増加している。1960 年代は全出産数に対して数%程度であり,1970 年代も 10 %以下だったが,最近は 15 %を超えるようになった。妊婦の 6 人に 1 人が帝王切開により出産するようになっている。帝王切開が増えた理由は,母子の安全をより重視するようになったことにあるが,医療事故を恐れて,訴訟を恐れて増加しているという一面もある。少しリスクがあってもなるだけ普通分娩を試みて,途中で危険な状況になったら帝王切開に切り替えるという考え方から,少しでもリスクがあれば,普通分娩を試みず,帝王切開を第一選択で行おうという考え方になっている。これから生まれる児に異常が起きてはいけない。母親にメスは入るが,子のためには仕方がない。麻酔も進歩したことだし,帝王切開は安全な手術なのだからなるべく帝王切開で,という考え方が広まりつつある。

確かに,麻酔管理が進歩して帝王切開が安全にできるようになってはいる。しかし,麻酔科医からいえば,帝王切開の麻酔は他の手術より心配な点がいくつかある。帝王切開術の麻酔では二つの命を見守ることになる。二つの命が揺れ動くなかで麻酔をする。新しい生命の誕生という場面に出会える喜びがあるものの,そのためになにか予期しない損失が起きるのではないかというかすかな不安がある。妊婦は若く,女性は女性ホルモンによって守られているから,その点では麻酔のリスクは少ないが,新しい生命が生まれるための代償ともいうべきリスクが帝王切開にはいくつか潜んでいる。

帝王切開に伴う最も大きなリスクは,許される時間が短いという点にある。前もって予定された待機的な手術ならそうでもないが,帝王切開はいくら術前の診断技術が進んでも,緊急で手術しなければならないことが時々起こる。陣痛がいつ起こるか不確定であるし,胎児の様子が急変することもある。胎児に低酸素血症の危険が迫る。予期せぬ破水。臍帯脱出。分娩停止。妊娠後期になると妊婦にも危険が迫る。血圧が急上昇する。肝臓機能が悪化する。血小板が低下する。痙攣が起きる。そんな時,急いで帝王切開が行われる。

時間が勝負の帝王切開

帝王切開の決定から赤ん坊を取り出すまでの時間が勝負である。胎児に酸素が不足している場合はとくに短時間で娩出させなければならない。分単位で急がなければならない。一応の目安として,緊急時には手術決定から 30 分以内に娩出することが求められているが,一刻でも早く出さなければ危ないという場面も生まれる。夜中でも,休日でも,とにかく急いで取り出さなければならない。だから,当直麻酔科医はいつも緊急帝王切開に備えていなければならない。緊急で手術する場合は妊婦さんの全身状態を十分に評価する時間もとれないので,準備も,体制も,構えも十分できていない状況で麻酔を引き受けなければならない。当然,母体に対する麻酔のリスクは高くなる。

産科の救急を扱っている病院やセンターでは,この 30 分ルールを確保できる体制が望まれるが,最近の実態調査では,約 3 分の 2 の病院が必ずしも確保できる体制になっていないという結果が明らかになっている。そして,その一番の理由に麻酔科医の不足が挙げられている。産科を専門に行っている病院に常勤の麻酔科医がいない施設だってある。産科医も不足して大変だが,産科医療に即応する麻酔科医の不足も大きな問題である。

麻酔科当直医の誇り

信じてもらえないかもしれないが,以前の病院で麻酔科の当直医は,どんな緊急手術にも即応できるように,手術室の中の回復室や廊下の患者用ベッドに寝て仮眠していた。当直室は別な場所に準備されていたが手術室から少し離れているため,駆けつけるために要する時間を惜しんでのことだった。彼らは,「緊急の帝王切開をお願いします」という産科医からの電話連絡があってから,15 分以内に赤ん坊を取り出すことを使命にし,誇りにしていた。帝王切開の麻酔は,目醒めの悪い麻酔科医にはつとまらない仕事である。


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