眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第38回 麻酔科医との最初の出会い

麻酔科開業医との出会い

私が初めて麻酔科医と出会ったのは,大学2年の時(昭和48年)だった。当時,ワンダーフォーゲル(ワンゲル)部に所属していた私は,夏合宿の医療班として山で事故にあった時の救急処置の講習会を計画するように割り当てられた。そしてワンゲル部の先輩からN先生を紹介され,教養部の六本松キャンパスで行われた講習会でお会いする機会を得た。半袖のドクターシャツを着て,ホンダのアコード車から颯爽と降りて来られた N 先生は,日本版ベンケーシーというご容姿で,実に格好良かった。髪はスポーツ刈りで,恰幅もよく,一見怖そうで近づきがたい第一印象だったが,挨拶すると笑顔が漏れ,その笑顔がなんともいえず温かく,包み込むような優しさを感じたのを覚えている。

N 先生は日本でも珍しい麻酔科開業医の一人であった。麻酔とはどんなものかよくわからなかったが,その時初めて私は麻酔科を専門にする医師の存在を知った。N 先生は市内に医院を構え,お一人で近隣の病院や開業医で行われる手術の麻酔を請け負っておられた。外科や産婦人科,眼科,耳鼻科,整形外科の病院と契約を交わして,手術の麻酔を担当しておられた。前もって曜日と時間を設定して計画的に行われる待機的手術だけでなく,緊急の手術であっても麻酔を引き受けなければいけないので,いつどの病院から呼び出しがかかるかわからない。休日や夜間の帝王切開など緊急手術もたびたびである。今のように安全な麻酔管理のための患者監視装置は整備されておらず,血圧計と聴診器だけが頼りである。心電図計もない手術室で麻酔をしなければならない。しかも危機的な状況に遭遇しても誰も助けてくれず自分だけが頼りである。さすがに心臓が止まったときの蘇生のために除細動器だけは車にいつも積んでおられた。強靱な体力と精神力を必要とする仕事である。そんな仕事を,もっともやり甲斐のある仕事として N 先生は自ら引き受けた。将来の麻酔科医像のひとつの姿を N 先生は先駆的に示そうとされた。N 先生はまさしく日本における麻酔科開業医の草分け的な存在であった。

夏合宿後,報告をかねて,N 先生宅にワンゲル部の仲間で押しかけ,ご馳走になり,N 先生や奥様と語り合ったのを覚えている。当時の私は遠距離恋愛中でもあり,恋愛と山にほとんどの時間と頭と心と身体を費やしていた頃でもあった。だから,よく誰彼となく恋愛論をふっかけていた。でもまさか,N 先生の奥様が私の恋愛話を真剣に聞き,受け止めてくれるとは思ってもいなかった。夜遅くまでお邪魔し,ご迷惑をかけてしまった。

医学部の勉強が始まる前に,私は N 先生からどっしりとした麻酔科医師像の洗礼をうけた。同時にまた睦まじい夫婦像の先例も見せて頂いた。そんな N 先生と同じ同門の麻酔科医となり,麻酔を始めて間もない頃,N クリニック開院 10 周年の記念パーティーがホテルで開催された。私は同期の麻酔科仲間と一緒にお祝いの踊りを披露することを計画した。それは当時刊行された筒井康隆著「宇宙衛生博覽会」の中の「関節話法」を用いたヘンな踊りである。

壇上に整列した女性1人を含む私たち同期の7人は,肘関節や股関節や仙腸関節を前後左右に折り曲げながら,「関節話法」でお祝いのメッセージを送った。当然ながら,筒井康隆的妄想世界を理解できない周りの人たちは,四股を踏みながら演技した関節鳴らしの努力は認めても,関節話法の内容を理解することはできなかった。お祝いのメッセージはお笑いのメッセージに変わってしまった。しかし,四苦八苦している姿の中に N 先生への感謝のメッセージは伝わったと思う。

N 先生が残したメッセージ

麻酔科に入ったあとも医局の大先輩として N 先生からは折に触れ貴重な助言を頂いた。卒後十数年が経ち,初めてお会いした頃の N 先生と同じ年齢に自分が達しようとする頃,体調を崩されていた N 先生が急に亡くなられた。あまりに突然の悲報だった。私は,呆然としながら,その頃読み進めていた大江健三郎の「燃えあがる緑の木」第二部「揺れ動くヴァシレーション」の次の一節を何度も読み返していた。
「ギレアデ,そこには痛みを鎮めてくれる薬(パーム)がある。傷ついてバラバラになった魂をまるごと恢復させてくれる薬(パーム)がある。ギレアデには癒してくれる薬がある。家郷に戻りついたら隣人につたえよ,あの人は私たちみなを救うために死なれた。ああ,ギレアデには癒してくれる薬がある。私が勇気を失ったように感じる そのような時,そして私の働きがむなしかったと考える時,しかし,その時にはホリー・スピリットが私の魂を再び生きかえさせて下さる。」

その夜,私は N 先生の御霊にホリー・スピリットが現れることを静かに祈った。N 先生は傷ついてバラバラになった魂をまるごと恢復させてくれる薬を私たちに託されたに違いない。麻酔科医は魂を恢復させてくれる薬をこそ痛みを持つ患者さんたちのために備えなければならないというメッセージを残して,N 先生は旅立たれた。


本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)の詳細 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)の詳細 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)を直接注文する 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)をAmazonで注文する


Copyright © 2006-2019; Medical Front Int. Ltd. All Rights Reserved.