眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第47回 心臓血管外科の麻酔(2)合併症

天皇陛下の心臓手術―執刀外科医のことば

天皇陛下の冠動脈バイパス手術が終わった直後の記者会見で,「手術は成功だったか」という質問に対して,執刀した外科医は,手術は予定通り順調に終了したが,成功したといえるかどうかは,「陛下がご希望されたご公務ないし日常の生活を取り戻されるという時点が,とりあえず成功ということを話題にしていい時期だと思う」と答えた。

今回の手術は心臓の冠動脈が狭くなっていたので,内胸動脈を冠動脈にバイパスして血流を維持するための手術である。だから,バイパスした血管の血流が十分にあることが確認されれば,一応手術は成功したといっていいだろう。少なくともその時点では成功したといっていいだろう。もし,それでも症状が改善しなければ手術に踏み切った判断がおかしかったということになる。

しかし,今回執刀した外科医は,成功かどうかは術後の経過次第であると述べた。百戦錬磨の心臓外科医として,心臓手術の成否が術後の生活改善の結果で判断されるべきだという信念を持っていたからであろう。それは,外科医のすべてが持つべきマインドであろうが,なかなか言えるものではない。

術後の経過が思わしくないと,外科医は患者さんに,「手術は成功しましたが,感染症が起きてしまいました」とか,「手術は成功しましたが,合併症のため,状態が悪化しました」と説明することが多い。だから,手術後に目的とした症状の改善が得られた時点で,初めて手術が成功したと言える,と語る外科医は,信頼に足る外科医といえるだろう。

手術に合併症はつきものである。最善を尽くしても合併症が起きることがある。それを手術の失敗とは言えない。しかし,大事なことは,手術は成功したのだから合併症は自分のせいではないと言い切らない姿勢である。感染症や出血や縫合不全を含めて,経過の中で起きる全てのことに関わっていくという態度こそが患者さんの信頼に応えることになる。

外科医は手術をする時,患者さんに合併症の説明をする。ある合併症が起きる可能性がどの程度あるかを説明する。麻酔科医も同じように麻酔の合併症の説明をする。説明をした後で,これらの合併症が起きないように,最善の努力をしますと付け加える。結果として起きたとしても,説明してあったからいいでしょうとする態度ではなく,残念な結果になったことを共に残念に思う態度が大切である。

ある心臓外科医の姿勢

もう十年以上前のことである。大学病院で小児心臓手術が行われた。執刀した外科医は,優秀な外科医で,近隣からも彼の手術を受けに多くの先天性心疾患の子どもたちが集まっていた。彼は,難病の子どもたちのいのちを救うことに精魂をかたむけ,時間を惜しまず,手術と周術期管理を行っていた。

ある日,9歳の心房中隔欠損症の少年が春休みを利用して彼の手術を受けた。手術は順調に終了し,術後の経過もスムーズで,1 週間ほどで少年は病院を退院することができた。しばらくして,新学期を楽しみにして友達と遊び始めた頃,少年は熱を出した。すぐに大学病院を受診すればよかったが,両親はちょっとした風邪かと思って,少年を近医に受診させた。

近医は抗生物質と解熱剤を処方した。翌日の夕方,少年は家で意識を失った。すぐに救急車が駆けつけ,少年を大学病院に搬送した。大学病院に到着したとき,少年はショック状態に陥っていた。血圧が触知できず,心臓マッサージが行われた。緊急検査で大動脈からの出血が判明した。

私たちは,すぐに心臓手術ができる体制を整えて,少年を手術室に運んだ。急速な輸血を行いながら,蘇生を行い,麻酔を行った。心臓外科医は,すぐに手洗いをして,以前開いた少年の胸を再び開いた。大量の出血があり,心臓の動きは極度に低下していた。ただちに人工心肺を回して,止血術が行われた。

大量出血の原因は,大動脈を縫っていた糸周辺に感染が起き,糸がほどけたためだった。外科医も麻酔科医も看護師も臨床工学技士も,その場のみんなが少年の生還を祈った。必死に止血術と循環管理を行った。しかし,結局,少年は再び意識を取り戻すことはなく,少年の心臓はふたたび元気に動くことはなかった。人工心肺から立ち上がることができず,補助循環装置に支えられて,少年は集中治療室に運ばれた。瞳孔が散大し,脳波も平坦になっていた。

心臓外科医は,ベッドサイドに寄り添って必死に少年の回復を待った。2 日間,脳波の平坦が続き,心臓の回復も不可能だと判断されたところで,外科医は家族に,補助循環装置を外すことを提案した。そして,ご両親の承諾を得て,ご家族の前で彼は補助循環のスイッチを切った。

合併症とはいえ,感染を起こし,最悪の不幸な事態を招いてしまった。もちろん外科医は責められない。術後の感染は全体の責任でもある。

手術の合併症も含めて,まるごと背負う態度で臨んだ心臓外科医を,ご両親は責めることはなかった。「このようなことになって申し訳ありませんでした」と,ご両親に頭を下げる心臓外科医に,ご両親は,「ありがとうございました」と頭を下げた。


本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)の詳細 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)の詳細 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)を直接注文する 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)をAmazonで注文する


Copyright © 2006-2019; Medical Front Int. Ltd. All Rights Reserved.