眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第49回 筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の麻酔

ある日,手術室に40歳代の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の男性患者さんが運ばれて来た。3年前に気管切開術を受け,気管切開口から気管カニューラが挿入されていた。自分で呼吸することができないため,担当医が人工呼吸を行いながら手術室に入ってきた。虫垂炎の緊急手術を行うためだった。

ALS は成人に発症する進行性の神経難病である。原因はよくわかっておらず,効果的な治療法もわかっていない。運動神経が脊髄レベルで障害を受けるため,体を動かそうとしても,筋肉に信号が伝わらず,思い通りに動かすことができなくなる。手足を動かせず,会話ができず,感情を表に出すことができなくなっても,運動神経以外は正常なので,痛みを感じ,痒みを感じ,意識もはっきりとしている。やがて,車いすや寝たきりの生活を余儀なくされ,食事や排泄の介護が必要になる。呼吸に必要な筋肉が動かなくなると人工呼吸器なしでは生きて行けなくなる。

手術室に現れたその患者さんも人工呼吸器によって生命が維持されていた。患者さんは病室のベッドに乗ったまま手術室に運ばれて来た。ベッドの柵には,液晶パネルのモニター画面が付いている。そこには,五十音表が描かれている。患者さんは,手足を動かすことも口を動かすこともできず,周りからは表情もまったく読み取ることはできなかったが,右頬と右手親指に薄い小さなセンサーが着けられており,微妙な動きをセンサーが察知して,液晶パネルの文字を叩くことができた。顔を動かすことはできないが,眼はうっすらと開いていた。

「麻酔を担当します麻酔科医のほかです。今,痛みはありますか」と私は彼に訊ねた。ちょっと間があって,画面に文字が現れた。
「痛み,ない,顔,指,よろしく」
「センサーのことですね。動かないように気をつけます。大丈夫ですよ」と私は伝えた。
「では,これから麻酔を始めます。よろしいですか」
画面を待っていると,やや間があって文字が浮かび上がった。
「どうぞよろしくお願いします」
「それでは,だんだん眠くなりますよ。手術が終わったら声をかけますから」
私は,静脈麻酔薬をゆっくり投与し始めた。眠ったのかどうか確かめるために,いつもなら「深呼吸してください」と声をかけて反応をみるのだが,彼には無意味な問いかけなので,声をかけなかった。

体動や呼吸の変化からは,麻酔薬が効いているのかわからなかったが,心臓の拍動や皮膚の気配からなんとなく効いていることが伝わった。私はいつもより多めの鎮痛薬を使って,麻酔を維持した。もちろん筋弛緩薬は使わなかった。指と頬についたセンサーがはずれないように,位置がずれないように気をつけながら,麻酔を行った。

彼が自分を表現できるのはこのセンサーを通してだけである。だから,麻酔からの覚醒を確認できる唯一の方法もこのセンサーだけである。もし,頬や指の小さな動きまでも止まってしまったら,彼はすべての意思伝達手段を奪われてしまう。私は,麻酔薬や鎮痛薬が影響して彼の唯一の意思伝達手段が奪われないことを祈りながら麻酔を行った。

TLS:(Totally Locked-in State)とは

ALS は進行性の病気である。この患者さんは発症から数年で人工呼吸器が必要になり,今残されているのは指と頬のわずかな動きだけである。病気がさらに進行すると,それさえできなくなる。すべての筋肉が完全に停止してしまったら,まったく意思伝達手段を奪われた状態になる。

そんな ALS の最終的な段階を TLS[Totally Locked-in State(完全な閉じ込め状態)]という。私はこの言葉を,川口有美子著『逝かない身体; ALS 的日常を生きる』(医学書院 2009)という本を読んで初めて知った。川口氏は ALS の母親を12年間介護し,この本を著した。この本は介護の記録ではあるが,単なる介護体験記とか病床記録とかいうものではない。また,ALS 患者さんへの同情や共感を求めるものでもなく,死に逝く患者さんの魂の救いとか赦しとかという話でもない。刻々と変化する ALS 的日常の中で介護者の揺れ動く気持ちが生々しく語られている。

TLS とは自らは呼吸もできない,意思表示もまったくできないという,人間が生きている姿としては究極の姿ではあるが,決して絶望的状態ではなく,TLS においてもなおそこに人間の希望ともいうものがあることを,私はこの本を読んで思い知らされた。それは,アウシュビッツで死を待つ人々の中にも誰にも侵すことのできない人間的希望や人間的尊厳や人間的業績というものがあるというフランクルの『夜と霧』にも相通じるものである。

TLS では意識や聴覚や思考力はあるのだが,目も開けられず,暗闇の中で,完全に閉じ込められた状態になる。TLS は閉じ込められている状態ではあるが,川口氏によれば,なにも出来ない状態ではなく,TLS の患者さんは「他者への信頼に身を投げ出すこと」ができるのである。

QOL の維持

私たちは人間らしく生きたいと願っている。人間としての尊厳を大事にしたいと思っている。非人間的で尊厳のない生き方を余儀なくされるぐらいなら,死を選択したいと思っている人も多い。そして,「人間らしく生きる」という言葉は,医療の世界でしばしば「QOL(Quality of Life) の維持」という言葉に置き換えられる。緩和ケアや終末期ケアでも,QOL という言葉が使われる。WHO の緩和ケアの定義にも「QOL の維持に努める」という言葉がある。

QOL は生活の質とか生命の質と訳され,緩和ケアのキーワードとなっている。安楽死が認められているオランダでは,安楽死を選択する理由の上位に,人間としての尊厳を失っているからとか,他人の世話になりたくないからというものがある。

しかし,そんな緩和ケアや尊厳死や安楽死の考え方の中には危うさも潜んでいる。「どうせ回復する見込みがないのなら,どうせ死ぬのなら,人工栄養や人工呼吸器を装着されてまで生きたいとは思わない」ということを選択する自由は,その人の自律性の中で発揮されるべきであるが,他人の生命にまで踏み込んで,人工栄養や人工呼吸器に頼ることを非人間的であるとか,QOL を極端に失っている人たちを価値のない生命であるとか,みなしたりする社会であってはならない。

川口氏は,意思伝達のできない母親が自らの意思を汗のかき方で示していることに気づく。それを「発汗コミュニケーション」と名付ける。「本音を語っているのは汗のほうだったりする。たとえ植物状態といわれるところまで病状が進んでいても,汗や表情で患者は心情を語ってくる」,「汗だけでなく,顔色も語っている。動かぬ皮膚の下の毛細血管は,患者の意識と生き生きとした情感がここにあることを教えてくれる。恥ずかしければ顔は赤くなるし,具合が悪ければ青白くなり緑色っぽくもなる」

介護者に読み取る能力があれば,完全な閉じ込め状態にあっても ALS の患者さんは意思伝達ができる。川口氏は,ALS の患者さんは決して安楽死を望んでなんかいない,否定されそうになる命を全身全霊で守っているのではないかと思うようになる。「進行した ALS 患者が惨めな存在で,意思疎通が出来なければ生きる価値がないというのは大変な誤解である」と何度も語る。
「もし死に囚われてしまった人や,お金の節約に熱心な人たちの言いなりになれば,大切な人を暗黒の死に引き渡すことになってしまう。病気に関して与えられる情報がどんなに悲惨で,突き放されるように聞こえたとしても,その身体が温かいうちは何かしら手の打ちようがあるというものだろう」
 「死だけが不可逆なのである。生きて肌に温もりが残るあいだは改善可能性が,希望が残りつづけている。死の恐怖が否定されるかわりに,病人の生の恐怖が蔓延しようとしているのである」
 「患者を一方的に哀れむのをやめて,ただ一緒にいられることを尊び,その魂の器である身体を温室に見立てて,蘭の花を育てるように大事に守ればよいのである」と語る。

現代社会は快適さや安楽さを追求してきた。その影で,不快なことや,苦痛を過度に排除してきた。苦痛の過度の排除によって,意思疎通手段まで奪われた人たち,他人の全介助なしでは生きていけない人たち,QOL を極端に失っている人たちまでも否定するような社会に傾かないようにしなければならない。

麻酔は患者さんを TLS に近い状態にする。麻酔で筋弛緩薬を使うということは,意思疎通手段を奪うことと同じである。さらに麻酔は意識も奪っている。意思の発生そのものも奪っている。そんな麻酔状態であっても,患者さんは,血圧や心拍数や皮膚の温度や汗や尿の出方で,生きていることを表現している。麻酔とは無意識の世界で生きている患者さんのいのちの声を聴き取ることでもある。植物のように,意識が無く意思表示ができなくとも,生きているサインは出している。そのサインを大事にして私たちは麻酔をしている。

虫垂炎の手術は無事終了した。私は,麻酔を切って,覚醒を待った。やがて,患者さんの血圧や心拍数や皮膚の様子から,覚醒していることが察知できた。そこで,「手術が終わりましたよ。わかりますか」と声をかけた。

しばらくして,画面に,「ありがとうございました」という表示が現れた。


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