眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第41回 子どもの麻酔(2) 失敗と幸運

失敗を胸に刻んで

麻酔科医になって 33 年目になる。失敗もあれば幸運なこともあった。失敗の多くは未熟さや不注意が原因であり,幸運の多くは偶然の重なりや患者さんの力に支えられたものだった。小さな失敗は挙げるときりがない。大きな失敗の経験も数多い。大きな失敗の中で,いま思い出しても冷や汗ものの失敗がいくつも浮かび上がってくる。その中で,最大の失敗であり,悔恨であり,罪科のようでもある,ある患者(患児)さんの麻酔を忘れることはできない。今もその日のその場面が脳裏に浮かび上がってくる。その日の手術室の光景がフラッシュバックされる。それは子どもの麻酔だった。

麻酔を始めて 3 年目頃だった。今からすると約 30 年前のことである。その日,私は一人の患者さんの麻酔を終え,ほっと一息ついていた。すると,緊急手術の連絡が入った。チーフから,「麻酔の担当を君にお願いする」と言われ,私は病棟に向かった。病棟の処置室には,1 歳前後の女児が寝ていた。女児は横向きに寝ていたが,呼吸が苦しそうで喘いでいた。診断は,「巨大頸部リンパ管腫」だった。緊急入院したばかりで,呼吸困難が強いため,腫瘍を取り除く手術を行いたいということだった。首に大きなリンパ管腫があり,頸部全体と下顎から顔面にかけても膨驍オていた。腫瘍が大きくて上向きに寝ることができないため横向きに寝ていた。気道が腫瘍で圧迫されて,あえぐような呼吸をしていた。

私は,診察結果をチーフとサブスーパーに伝えて,一緒に麻酔計画を立てた。相談の結果,筋弛緩薬は使用せず,吸入麻酔薬で導入して,気管挿管を行うことになった。気道確保ができない場合は,いったん麻酔を醒まして引き返すことにした。また,窒息状態になったら救命のために気管に注射針を刺してそこからジェット換気を行う体制も準備することになった。

手術室に女児を搬入し,吸入麻酔の導入を始めたが,マスクによる呼吸の補助は可能だった。当時は,酸素飽和度モニターのパルスオキシメータも換気モニターの二酸化炭素濃度モニター(カプノメータ)もまだ手術室にない頃だった。だから,聴診器を付けて,呼吸状態を観察しながらの麻酔である。麻酔が深くなったと判断して,気管挿管を試みたが,口の中や咽頭も腫瘍で押されて変形しており,気管の入り口である喉頭や声帯を確認することが出来ない。再び,マスクによる呼吸補助を行おうとしたが,今度は十分な気道確保ができない。次第に低酸素血症になっていく。至急コールを要請すると,スーパーバイザーや先輩たち多くの麻酔科医が来てくれた。しかし,いろいろ工夫しても気道確保ができない。エアーウェイという気道開通のための道具も使用したが,思うように換気できない。麻酔を醒まそうとしたが,その前に,徐脈に陥り,心臓の動きもおかしくなった。そこで,気管のところに注射針を刺し,ジェット換気をしようとした。しかし,頸部は腫瘍で圧迫されているために,気管をうまく見つけることができない。気管に刺したと思ってジェットガスを送気したが,それが気管に入っておらず,頸部がさらに腫脹してしまった。事態はますます悪化し,換気不能になり,心停止に陥った。結局,私たちは蘇生できなかった。もともと圧迫され変形していたとしても,命を繋いでいた気道が麻酔後に閉塞し,それを解除することができずに,女児の命を奪ってしまった。

反省すべき点は数多い。麻酔科医として未熟だったと言わざるをえない。気道確保ができなくなったとき,私は冷静ではいられなかった。いまだったら別な方法がとれたかもしれない。麻酔薬やモニターや医療機器も進歩しているので別な対応がとれたかもしれない。ご両親はどんなにショックを受けただろう。その後,どんな説明をご両親にしたか覚えてはいない。教授やサブスーパーや耳鼻科の主治医から説明がなされたのかもしれない。女児を前にして,私は謝り,涙を流した。その後,私は落ち込み,麻酔科医の道を続けるべきかずいぶん迷った。女児の死を決して無駄にはしないと誓うことだけが私にできる唯一のことだった。

幸運は不断の努力の中にある

一方,麻酔の幸運もまた私は多く味わってきた。その中でも最大の幸運は生まれたばかりの男児との出会いだった。麻酔科医になって 10 年以上がたっており,私はその日の手術室全体のスーパーバイザーをしていた。5 室で帝王切開術が 30 歳代の女性に行われていた。担当麻酔科医が予定通りに,硬膜外麻酔を施行し,手術が開始された。産科医が胎児をすばやく取り上げ,いつものように臍帯を結紮し,赤ん坊が麻酔科医の待つ保温ベッドの方に渡された。

麻酔科医はいつものように赤ん坊の顔に付着した羊水や血液を拭き取り,口腔内を吸引し,呼吸を確かめた。しかし,赤ん坊は呼吸しない。背中や足うらを刺激するが,それでも泣かず,呼吸してくれない。そこで,マスクをあてて換気しようとしたが,まったくできず,胸は動かず,凹状にしぼんだままである。気管挿管しようとしたが,それもできない。

手術室の廊下を歩いていた私に,すぐに来て下さいという連絡が入った。この時点では,いつもの緊急事態のように思っていた。マスク換気や挿管がうまくできないのだろう。交代すればきっとうまくいくに違いないと高をくくっていた。まだ,ことの重大さに気づいていなかった。私は,若い麻酔科医に代わって気管挿管しようとした。喉頭鏡で咽頭から喉頭を観察したが,いつもの喉頭蓋や声帯がまったく見えない。なにかが違う。不吉な予感が走った。いままで見たことのない口の中だった。そんなはずはないと思ってもう一度声帯を捜したが見つからない。マスクによる換気を試みるがそれもまったく不可能だった。赤ん坊はこの世に誕生したものの,まだ 1 回の涕泣も,1回の呼吸もしていない。胸郭は陥没したままである。

時間だけが経っていく。子宮から取り出されて,臍帯を切り離してからすでに 10 分以上は経過している。赤ん坊の皮膚は,すでにチアノーゼ色を呈して,全身紫色になっている。しかし,まだ心臓は動いている。このままだと,確実に心臓が止まるだろう。息ができないまま,この子は死んでいくだろう。窒息で死んでしまうだろう。どうすればいいのだろうか。再度,気管挿管を試みた。声帯が見つからないなんてあり得るのだろうか? 私の力不足で見つけられないのかもしれない。必死になって捜した。この場では私が最終責任者である。私が,見つけることができなければ,もうなすすべはない。

冷静になろう。こんな時どうすればいいのだろうかと考えた。研究室だったら,実験中の兎が窒息しそうになったら気管切開する。ついこの前も研究室で兎に気管切開したばかりである。そして,今この子を救えるとしたら,気管切開以外にないのではないか。しかも,今ここで,直ちにやらなければ助からない。では,誰がするのか。耳鼻科医を呼んでいる暇はない。自分しかいないではないか。

一瞬,別の思いが脳裏を走った。この子は,呼吸停止状態が長い。低酸素状態が長い。すでに脳は不可逆的な状態に陥っているのではないか。たとえ助かったとしても,脳の後遺症は避けられないのではないか。助かったとしても植物状態のようになるのではないか。ご両親やご家族はさぞ辛いのではないか。

しかし,それでも助かる方法があるなら助けなければならない。幸いまだ心臓は動いている。私は,看護師からメスと小鉗子を受け取ると,すばやく,赤ちゃんののど元を切開した。幸い気管はすぐに見つかった。実験室で兎の緊急気管切開を何度も経験していたことがその場に生かされた。そして気管を剥離して,気管に切開を入れ,すぐにそこに気管チューブを挿入した。蘇生用バッグを気管チューブに接続し,バッグを押すと,陥没していた胸が膨らみ始めた。同時に,見る間に全身が紫色からピンク色に変わっていった。

助かった。助けることができた。瞳孔はどうか。まだ開いている。脳はどうだろうか。回復するだろうか。どうか後遺症なく育ちますようにと,気管チューブを固定しながら私は,麻酔の神様に祈った。

すぐに耳鼻科医を呼んで,口腔内や咽頭,喉頭を検査してもらった。耳鼻科医もすぐには診断がつかないようだった。とにかく正常な組織ではない,声帯もみつけられない,ということだった。新生児集中治療室に行き,その後 CT 検査をすることになった。そして,最終診断が下った。それは,先天性喉頭閉鎖症であった。幸運にも,気管切開した場所は,気管が閉鎖している場所の直下であり,もう少し上で切開していたら,閉鎖部位で換気ができないところだった。

その後,新生児科,耳鼻科の長期間にわたる努力のせいで,明らかな後遺症もなく,男児は無事退院することができた。気管切開口は開いたままであるが,普通の子どもたちと同じように元気に学校に通っています,との連絡が約 10 年後に私のもとに入った。

多くの失敗を重ねながら,そして幸運に恵まれながら,私は麻酔を続けてきた。何度も後悔し,反省もした。感謝もされたが,何度も患者さんやご家族の前で陳謝し,叱責も受けた。命を与る仕事であるから,当然のことである。命を護る仕事であるから,すべての結果を引き受けなければならない。そんな中で思うことは,麻酔科医は幸運に見放されたら,仕事を続けることはできないだろうということである。幸運はどこからやってくるかというと,小さな幸運は毎日の麻酔の中に潜んでおり,大きな幸運は積み重ねた経験のなかに現れるということである。


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