眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第27回 ニューオリンズの夜

裸の夜

ハリケーン「カトリーナ」がニューオリンズ市を襲ったのは 2005 年の 8 月 29 日である。その年の 10 月にニューオリンズでアメリカ麻酔学会が予定されていたが,市内が水没し,2000 人近くが死亡するという大惨事に見舞われた被災地での学会開催はとうてい不可能だった。急遽,学会はアトランタに場所を移して行われることになった。それから 4 年が経過し,2009 年に学会がニューオリンズで開催された。学会場周辺やフレンチクォーターと呼ばれる市街地には災害の爪痕はほとんど残っていない。悲しみからの復興を遂げることができた市民の喜びと笑顔が街のあちこちにあった。

福岡から成田,そしてダラスを経由して,ニューオリンズの空港に到着したのは夕方だった。長旅に疲れていて,早くホテルで休みたかったが,どうしたことか私の荷物が届かない。ベルトコンベヤーの上に次々と荷物が載せられ,目の前を過ぎていくが,私の荷物は現れない。乗客が次々と自分の荷物を拾い上げていき,最後に数個のスーツケースが残ったものの私の黒いケースはその中にない。事務所のようなところで係の人に尋ねると,きっと乗り換え時に荷物だけが取り残されたのだろう,たぶん次の便で着くだろうから,着いたらホテルに届けてあげますと言って,荷物の特徴と滞在ホテルをメモした。あまりにも事務的に処理してくれたので,腹も立たたなかった。

私は仕方なく,本とカメラとパソコンだけが入ったバッグをもって,ホテルに向かい,チェックインした。一時も早くシャワーを浴びて着替えたかったが,バッグの中に着替えはない。ひげ剃りもない。歯ブラシもない。まあそのうちに届くだろうと,シャワーだけ浴びて,裸でベッドに潜った。テレビや映画のシーンで外国の人は,裸でベッドに入ることに慣れているようだが,いやそれはラブシーンだったか。日本人の私は,せめて下着だけは纏わないとどうも落ち着かない。ホテルにあったタオルをふんどし代わりに使おうかとも思案したが,厚手の生地で痛そうだったのでやめた。

下半身が落ち着かないままだったが,それ以上に眠気が勝って,私はすぐに眠りに落ちた。しばらくして,ふと銃声のような音で目が覚めた。救急車やパトカーのサイレンらしい音も聞こえる。真夜中と思うが,フレンチクォーターの中にあるこのホテルの横は,たむろする若者らで賑わっている。いったん目が覚めてしまうと,時差ボケもあってなかなか眠れない。そこで,テレビのスイッチを付けてみた。

死の間際の静穏

テレビ画面に,アメリカンフットボールの試合の様子が映っている。選手ではなく,審判の姿がアップになる。突然,審判がグランドに倒れる。みんなが駆け寄るが,審判はまったく動かない。すぐに医療班が現れ,心臓マッサージが始まる。そこで画面が変わった。元気に回復した審判がインタビューに応じている。あの瞬間に何を体験したのか。次は,冬山でスキー事故にあった女性の姿が映る。心停止状態で見つかり,病院に運ばれる。3時間が経過する。まだ心臓は動き出さない。雪山で体温が極度に低下している。懸命の蘇生術の結果,やがて心臓が動き出す。経食道心エコー検査で心臓が動き始める様子が映る。彼女も後遺症なく回復し,インタビューに応じている。あの瞬間に何を体験したのか。3人目の女性は,運転中に突然心停止になり,事故を起こし,病院に運ばれる。心停止から1時間近くが経過し,蘇生をあきらめかけた頃,心拍が再開する。助かった彼女が元気にインタビューに応じている。あの瞬間に何を体験したのか。

それは3人の臨死体験をもとに作られたドキュメンタリー番組だった。彼らは,心臓がいったん停止し,生死の境をさまよったものの,なんの後遺症も残さずに助かった。臨死状態の中で何を考え,何を見たのか,あの瞬間に何を体験したのか。インタビューで語る3人の言葉が面白かった。3人とも,同じ言葉で語ったからである。「I am very peaceful」。アメフトの審判は,意識が消えていくときの様子を,「I am very peaceful, calm, no pain」と語った。死の間際は,平和な,静穏な,痛みのない世界であると。そして,目の前に「bright light」が現れたと言う。二人の女性も同じことを語っている。平和な気持ちで満たされていると,明るく輝く白い光がトンネルの向こうに現れ,導いているようだったというのである。

死は私のベストフレンド

ますます眠れなくなったので,私はテレビを消して,日本からもってきた本を読むことにした。それはパウロ・コエーリョ(Paulo Coelho)のアルケミスト(The Alchemist)という小説である。少年が夢を追いかけて砂漠を旅する物語である。コエーリョの小説は「The Witch of Portobello」に次いで二冊目だが,彼の物語には不思議な魅力がある。The Alchemist には,哲学書のような、宗教書のような言葉がちりばめられている。例えば,everything on the face of the earth had a soul, whether mineral, vegetable, or animal ? or even just a simple thought (地球上のすべての物は魂を持っている,たとえ鉱物でも植物でも動物でも,あるいはただの単純な思考でさえも)とか,If you can concentrate always on the present, you’ll be a happy man. You’ll see that there is life in the desert, that there are stars in the heavens, and that tribesmen fight because they are part of the human race. Life will be a party for you, a grand festival, because life is the moment we’re living right now. (いつも現在に集中できれば,あなたは幸せな人間になれるだろう。砂漠の中にいのちを見つけるだろう,天に星が見えるようになるだろう,そして部族民が闘うのは彼らが人間の一種族であるからだということを理解するであろう。いのちはあなたにとって祝宴であり,大祝祭である,なぜならいのちは,私たちがまさに今生きているこの瞬間なのだから)。

この本の巻末に,コエーリョの死に対する考えが載っている。コエーリョは「あなたにとって死とは何か」と訊かれて次のように答えている。死はいのちの終わりではなく,私の最良の友人でもある。死はいつも私の側にいる。あなたと話している今も,雪の山々をここで眺めている時でさえも。死が,「あなたに口づけしましょう」と近寄ってくる。私は,「お願いですから今はダメです」と言う。死は,「分かりました,では今はよしましょう。しかし,注意してください,いつも最上の瞬間を得るように努力して下さい。そうでないと私が連れて行きますよ」と言う。私は答える,「分かりました。死のあなたから,自分の瞬間を十分に生きなさいという,人生でもっとも大切な忠告を頂きありがとうございます。」

荷物が届かない今の,裸で寝ている今の,この瞬間を十分に生きるために,私はコエーリョの本を閉じた。荷物が届かなかったときの明日からの学会のことは考えずに,裸でいる今の自由を味わうことにしよう。平和で静穏で痛みのない世界が死の瞬間であるのなら,生の瞬間を十分に生きるということは,苦しく,騒々しく,痛みのある生の世界の中で,希望を持って働くということなのだろう。


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