眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第35回 東日本大震災(2):何ができるか

震災後の医学会

東日本大震災が発生した後,今春に開催を予定していた多くの医学会が中止か,あるいは延期となった。規模の大きな学会で言えば,大震災の翌週に開催予定だった日本循環器学会総会,3月下旬の日本薬理学会総会,そして,4月上旬の日本医学会総会が相次いで中止になった。何れも横浜市や東京都が会場であり,計画停電が実施されたり余震が頻発したりしている中での開催はとても困難であるという判断だった。

しかし,その後,いったん中止となった学会もいくつかは,時期をずらしたり内容を変更したりして,実施の方に向かっている。学会を中止すれば折角準備してきた講演や発表が水の泡になる。学会を目指して 1 年間努力を重ねて来た研究者も多い。研究成果の共有や進歩も止まってしまう。そんな思いからだろう。日本循環器学会は夏に短縮して実施することになったし,日本産婦人科学会も 4 月から 8 月に延期して開催することになった。また,日本医学会総会も,学会の形を大幅に変更して実施することになった。4年に一度開催されるこの日本医学会総会は,医学会全体を束ねる重要な学会であり,長期間をかけての周到な準備が必要な学会であり,組織委員や関係者も中止の決定に苦慮されたことだろう。結局は中止とするのではなく,講演スライドを DVD に収録して事前登録者に配布するとか,「災害医療」,「放射線医療」,「今後の医療・社会システム」といった東日本大震災で浮かび上がってきた諸課題をテーマとして9月に特別企画を実施するなど,変則的な形で学会を開催することになっている。

リスクマネジメント学会

そんな中,私は日本予防医学リスクマネジメント学会学術総会を平成 23 年 3 月 17 日 18 日の2日間,九州大学医学部百年講堂で開催した。小さな学会とはいえ,大震災の翌週に学会を開催した。こんな時に学会をやっていいのかという声もあった。学会開催よりも被災地の医療支援を最優先しなければならない。すべての医療人は結集して,被災者の救済と援助にあたらなければならない。医療関係者はまずは被災者に対して何ができるかを考えなければならない。それもよく分かっていた。学会をするより被災地に行くべきではないかと思った。しかし,私は学会を中止にしなかった。私に出来ることは,中止することではなく,リスクマネジメント(危機管理)を徹底することのように思われた。現地に飛んでいけない大学人の私に出来ることは,学会中止ではなく,計画停電や余震のない九州の地で,危機管理について話し合うことではないかと思った。自己満足に過ぎないかもしれない。何かを投げ出すのではなく,何でもいいから,やり遂げることで,何もできない自分を鎮めようとしていたのかもしれない。ただし,もし学会を開催することで誰かに何か言われたとしても,胸を張って逃げずに一切を背負う覚悟だけは決めていた。

被災地へは,私の病院からも震災後すぐに災害援助チームである DMAT(Disaster Medical Assistance Team:災害派遣医療チーム)隊が飛んで行った。私の仲間も同行した。しかし,今回の大津波による被災地での救援活動は,通常の大事故や震災時の救援活動と異なり,被災直後に集まった DMAT 隊にとってほとんど何も出来ない状態だったという。被災地があまりに広範囲で,しかも交通網が遮断されており,現場に行くことさえも出来なかったという。ほとんどの被害が津波によるもので,死者や行方不明者の多くは溺水であり,外傷で救助を待っている人たちに遭遇するまでは至らなかったという。DMAT 隊による救命の手が届く余地はほとんどなかったということである。救助よりむしろ検死のための法医学者たちの手が求められていた。

危機管理

私は,学会のプログラムの中に急遽,「原子炉の安全性」の特別講演を入れることにした。原子力エネルギーの専門家の講演を聞いて震災関連の危機管理について学ぶことが,被災者の方々への祈りに繋がるのではないかと思ったからである。危機管理という点では,これまで原子炉について,私は,私たちは,あまりに知らなさ過ぎた。広島・長崎を経験し,世界に対して「過ちは繰り返しません」と誓っておきながら,同じ原子力に対する危機管理をおろそかにしていた。

すでに 1989 年には福島第二原発で再循環ポンプがバラバラになる大事故が起きていたという。1991 年には関西電力の美浜原発で放射能を直接に大気中や海へ大量に放出する事故があったという。1995 年には,福井県の敦賀にある動燃のもんじゅでナトリウム漏れの大事故があったという。そして,これらは大事故としてではなく,事象という言葉で扱われた。危機管理は,危機を危機として認識してこそ適切な対策が立てられる。事故を事象にすり替えたところに,原子力に対する危機管理意識の薄さが表れている。

戦後間もない頃,湯川秀樹氏が作った「原子と人間」という詩に書かれている次の言葉の意味を私たちはもっと深く考えておくべきだった。


ついに 原子と人間とが 直面することになったのだ
巨大な原子力が 人間の手にはいったのだ
原子炉のなかでは あたらしい原子が たえず つくりだされていた
川の水で しじゅう冷やしていなければならないほど 多量の熱が 発生していた
人間が 近よれば すぐ死んでしまうほど多量の放射線が 発生していた
石炭の代わりに ウランを燃料とする発電所
もう すぐに それが できるであろう

(「原子と人間」湯川秀樹 から一部抜粋)

何ができるのか

学会を開催するかしないか,被災者にとってはどうでもいいことである。被災を免れた人たちは,自分たちに何ができるのかを,一人一人が考えればいい。それぞれの仕方で,可能なやり方で,支援や声援や祈りを捧げればいい。現地では自衛隊や消防隊や警察官らが懸命に働いている。ボランティアの人たちは直接に被災者に援助の手を差し出している。義援金で応援もできる。100 億円を寄付した孫正義氏は実に大きな貢献をした。賞金をすべて寄付するという石川遼選手も立派である。お小遣いを募金箱に入れる子どもたちも,なお立派である。プレーで応援するスポーツ選手もいる。毎晩祈り続けている人もいるだろう。みんなができることをやればいい。大事なことは忘れないこと,そして,大震災を通じて自分の生き方をどう変容させるかということだと思う。

東日本大震災から約一月半が経った 4 月 21 日に人気アイドルグループ「キャンディーズ」の元メンバーだったスーちゃん,田中好子さんが乳がんのために亡くなった。先日の告別式で流された彼女の肉声テープに涙を流した人も多いだろう。それは,生きている人だけでなく,死に逝く人も,被災者のためにできることがあるということを教えてくれるものだった。いや,死が避けられない人間こそが死者のために為すことが出来る大きな仕事があるというメッセージだった。 「天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。それが私の務めと思っています。」

スーちゃんの命日は,大地震から数えてちょうど 42 日目である。丁度,6 回目の七日目で,六七日(むなのか)だった。そして,今日(4 月 28 日)が四十九日である。大震災後に中有をさまよっていた被災者たちの魂は,六七日に,スーちゃんの祈りを聞いて,大きな安心を得たのではないだろうか。そして,津波に呑まれて死んでしまった人たちが,今日四十九日に彼の地に旅立つことができるように,私もささやかな祈りを捧げたい。

そして,わたしにできることとして,明日からの連休を利用して,痛みをとる貼付薬と治療棒を持って,現地に向かおう。


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