眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第44回 鏡視下手術の麻酔

最近,外科手術が大きく変化している。外科医がメスやハサミをもつことが少なくなっている。外科医が自分の手で傷を開き,自分の手で臓器に触れながら手術をすることが少なくなっている。外科手術の低侵襲化ともいうべきもので,なるべく小さな傷で手術が行われるようになっている。傷口を小さくできれば,それだけ患者さんの負担が軽くなる。その代表が鏡視下手術である。現在,腹部手術の大部分が内視鏡を用いて行われるようになった。

鏡視下手術の始まりは不妊症に対する婦人科手術や胆石症に対する胆嚢摘出術であったが,その後,どんどん拡大されていき,今では胃切除術,大腸手術,膵臓手術,腎臓手術,ヘルニア手術など腹部臓器のほとんどの手術が鏡視下に行うことができるようになっている。もちろん腹部だけでなく,前立腺や関節内,胸腔,鼻腔,脊椎など,全身至る所の手術が今や鏡視下手術の対象になっている。

このように鏡視下手術が隆盛を迎えるようになった背景には,鏡視下手術関連の医療機器や医療材料が大きく進歩したことが挙げられる。鏡視下手術では高額な医療機器がどんどん消費されるために,医療機器会社も惜しむことなく開発に投資する。外科医と医療機器会社の両者が提携して,知恵を出しあって,より良質な機器へと改良されていった。鏡視下手術の向上はそのまま外科全体の向上にもつながり,患者さんの QOL の向上にもつながっている。

傷口が小さいことが鏡視下手術の最大の長所であるが,それ以外にも多くの長所がある。出血が少ないために,輸血の機会が減少する。テレビ画面に術野を拡大して見ることができるので,細かい手術手技ができる。内視鏡で奥を観察できるので,外からは見えない場所の操作もできる。また,同じ視野を共有できるため,立ち会っている医療チーム全員が共同で作業しやすい。さらに,手術操作をビデオ録画し映像化できるため,客観的な手技評価ができ,患者説明にも透明性が生まれる。

鏡視下手術の光と影

しかし,どんな医療の進歩も光と影を持っている。影の部分を克服していく歴史が鏡視下手術にもあった。腹部の鏡視下手術では腹腔内にガスを注入してお腹を膨らまして手術を行う。ガスとしては二酸化炭素が用いられる。もし二酸化炭素ボンベと間違って酸素ボンベをつないだら,電気メスで発火してしまう。昔,二酸化炭素の代わりに笑気ガス(亜酸化窒素)を使った歴史もあったが,笑気ガスは助燃性をもっている。腸管が破れて漏れ出たメタンガスと電気メスの火花が発火し,笑気ガス爆発が発生し,患者さんが亡くなるという悲惨な事故が海外で報告されている。以来,笑気ガスは送気には使用されなくなった。

二酸化炭素が送気に使われる理由は,不燃性であることと血液に溶けやすいということである。誤ってガスが血管内に入っても血液に解けやすいので被害が少なくてすむ。しかし,大量のガスが直接血管内に入ると,生命に関わるような事態が発生する。とくに最初にガスを注入するために挿入する器具(トロッカーという大きな針のようなもの)が誤って静脈内に入ると,そこに大量のガスが入り込むのであっという間に,ガス塞栓を起こしてしまう。当初は,この送気時のガス塞栓で亡くなった患者さんもいた。なんともつらい犠牲者が出てしまった。婦人科の不妊手術で若い健康な女性が手術中に突然,心停止に陥ってしまう。犠牲者や家族はやりきれなかったであろう。手技や器具の改良で今はそんなことは起こらないと思うが,今でも私は,最初のトロッカーが挿入される時と送気が開始される一瞬には一抹の不安を覚える。

送気するガスが皮下に広がると皮下気腫が発生する。また,腹腔内への送気が胸腔内に流入し気胸を起こすこともある。深部静脈血栓のリスクも増加する。腹膜が刺激を受け迷走神経反射で徐脈になったり,静脈還流の低下で血圧が低下したりといった循環系の変化も起きる。

鏡視下手術に関連する大きな医療事故として記憶に新しいものとしては,2002 年に関東の大学病院で行われた前立腺がんに対する腹腔鏡手術で大量出血のため患者さんが亡くなった事故と,2010 年に名古屋の大学病院でロボット支援下の鏡視下胃切除術後に膵臓損傷のため患者さんが亡くなった事故がある。前者は,経験の少ない医師らが行ったための失敗であり,後者は膵臓の損傷に気づくのが遅れたためといわれている。いずれも鏡視下手術のような最新の技術に医療側の力が十分に追いついていなかったためである。医療の進歩の光を追い求め過ぎて,進歩に潜む影を見逃したためである。

鏡視下手術は通常全身麻酔で行う。外科手術の侵襲は小さくなっても麻酔そのものの侵襲が小さくなるわけではない。予期せぬ変化に備えて麻酔科医はしっかりと覚醒していなければならない。手術の内容が映像に映るので外科医が何をしているかよく把握出来る点はありがたい。しかし,気をつけなければいけないのは,映像に映されているのはカメラの撮影している範囲だけだということである。撮影から外れた部位で何が起きているか,よからぬことが起きていないかどうか,麻酔科医は患者さんのさまざまなサインを見逃さないようにしなければならない。麻酔科医には,カメラの光が当たらない影の部分にまで配慮する力が求められる。

外科手術の侵襲が小さいことは患者さんの負担を軽減することにつながるが,医療者側の注意まで小さくなってしまってはなんにもならない。最新の医療機器に囲まれて急成長している鏡視下手術をしっかり支えるためには,光だけでなく,光によってできる影をもしっかりと見逃さないことが大切である。


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