眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第40回 子どもの麻酔(1)危うい眠り

麻酔に年齢はない。0 歳だろうと 100 歳を超えていようと,生まれてから死ぬまで,麻酔が必要なときは麻酔をしなければならない。ときには,生まれる前の胎児に麻酔をすることさえもある。

以前,新生児や乳幼児は痛みの感覚や記憶が未発達だからという理由で,麻酔作用の弱い亜酸化窒素と筋弛緩薬だけの麻酔(リバプールメソッド)が一部行われたこともあったが,今はそんな麻酔法は存在しないし,倫理的にも許されることではない。赤ちゃんだって,当然痛みを感じるし,小さい頃の痛みが潜在的な記憶として残ることもある。なぜそんな麻酔が行われていたのかというと,当時は麻酔薬や麻酔器具やモニターが発達しておらず,赤ん坊への麻酔はリスクが高かったためではないかと思われる。麻酔は危険だから深くしないようにして,なるべく浅い麻酔で行っていたのではないだろうか。少々痛みがあるかもしれないけれども,麻酔で命を失うことだけはないように,浅めの麻酔にしていたというわけである。

現在,子どもの麻酔は以前と比べて格段に安全になっている。大人は,年齢を経るにしたがって,あちこちにガタがくる。血管が詰まり,骨が脆くなり,臓器の機能が弱まってくる。しかし,子どもは元気で,血管もきれいで,臓器の機能もほぼ正常である。子どもは,大人のような高血圧や糖尿病や肥満といった生活習慣病は少なく,合併症も少ない。だから,子どもの麻酔は大人より,そういった合併症によるリスクを心配する必要がない分,楽であるといっていい。

それにもかかわらず子どもの麻酔は気を使うことが多い。相手が小さいだけに細かい配慮が必要だし,やさしく対応する必要がある。点滴確保のための血管も細く小さく,挿管のために覗く気管も細く小さい。薬の量は体重あたりで換算して投与するため,体重 1 kgの未熟児と 10 kgの 1 歳児では 10 倍も投与量が違う。体温の調節能も未発達で,環境温度に影響を受けやすいので,手術中には低体温になりやすく,また麻酔の影響やうつ熱で高体温にもなりやすい。下痢や嘔吐などの症状ですぐに脱水になりやすいなど,水分バランスも大人以上に配慮が必要である。

子どもの麻酔では,循環器系より呼吸器系のトラブルが起きやすい。もちろん先天性心臓病の小児では循環器系の問題があり,麻酔管理も心臓や血管の異常を考慮して行う必要があるが,そういった特殊な場合を除けば,子どもの心臓は元気で,成人のような動脈硬化による心筋虚血の発生や脳虚血を心配する必要がない。逆に,子どもの呼吸器系は発達段階にあり,とくに赤ん坊は未熟な構造と機能のために,呼吸器系のトラブルが発生しやすい。嚥下反射の機能が低下していることも窒息を起こしやすくしている。赤ん坊はなんでも口に入れたがり,異物を気管に詰まらせて手術になることも時々経験する。また麻酔の始まりや終わりに,喉頭痙攣(声帯が閉じて呼吸が出来ない状態)や気管支痙攣(喘息症状)を起こしやすい。麻酔によって意識がなくなると,舌や扁桃などで上気道が閉塞し,低酸素症になりやすい。

麻酔薬だけでなく,手術の前に使う鎮静薬(前投薬という)も注意が必要である。以前,出張先の病院で麻酔をする機会があり,手術室で女児の搬入を待っていたときのことである。耳鼻科のアデノイド切除と扁桃摘出術が予定されていた。病棟から運ばれてきた女児を見て私はあわてた。その子は,チアノーゼ状態で顔色が紫色になっている。呼びかけにも反応しない。呼吸がほとんど停止しかかっている。前投薬で使われた鎮静薬で眠ってしまい,腫大したアデノイドと扁桃のために気道が閉塞して,窒息しかかっていたのである。すぐに気道確保と酸素投与をして危うく難を逃れることができたが,もうちょっと遅かったら大変なことになっていたかもしれない。

子どもの麻酔は手術以外にも必要な場合がある

子どもに麻酔をするのは,手術の時だけとは限らない。検査や処置の場合に麻酔が必要になることがある。乳幼児の心電図検査など,痛みを伴わない場合は鎮静薬を飲ましたり坐薬をいれたりすれば,眠った状態で検査ができるが,内視鏡検査や眼底検査などでは,ほぼ全身麻酔に近い状態が求められる。そんな場合は,検査が手術室でできるなら検査機器を手術室に持ってきて手術室内で行われる。検査機器が手術室にない時や,あるいは持ち込めない時は,検査室に麻酔科医が行って麻酔することになる。その時は麻酔器もモニターも検査室に運び入れる必要がある。

十分な数の麻酔科医がいる病院では,麻酔科医が検査室に行って麻酔を担当することもできるが,余裕のない病院では手術の麻酔だけで手一杯のため麻酔科医の都合がつかないこともある。そんな時は,仕方がないので,小児科医や放射線科医が麻酔に近いほどの深い鎮静状態をつくって検査をすることになる。

最近(2011 年 8 月),子どもに磁気共鳴断層撮影(MRI)検査をする際の麻酔合併症について調査報告があった。日本小児科学会の医療安全委員会が調査したもので,416 病院へのアンケート調査の結果,子どものMRI検査で麻酔合併症が起きた経験のある病院は 147 病院の 35 %にのぼった。合併症として呼吸停止,徐脈,心停止が挙げられている。検査中に子どもが動かないように使用した麻酔薬(鎮静薬)によって,呼吸が弱まり,低酸素状態になる危険性が相当に高いことが報告されている。

麻酔科医が子どものそばにいて,気道を確保したり,呼吸の補助をしたりすることができればいいのだが,多くの病院でMRI検査に麻酔科医がつくことはない。麻酔科医でなくとも呼吸を補助できる小児科医がいればいいのだが,小児科医もそばにいなかったりする。また,酸素濃度を連続的に測定できるモニターさえ付けないでやっているところもある。MRI 検査では金属機器を持ち込むと強力な磁気装置に金属が飛んで行くので,危ないから酸素ボンベや麻酔器やモニターが部屋に持ち込めないというハンデもある。MRI 検査室専用の非金属製品だけの特殊な麻酔器やモニター機器も作られているが準備するにはその分お金もかかる。そんなわけで,MRI 検査を子どもにする際の麻酔はとくにリスクが高くなる。

MRI 検査に限らず,子どもの検査室での麻酔や過度の鎮静は,監視やサポート体制が不十分になりやすいだけに,手術室よりもリスクが大きくなる可能性がある。麻酔をするなら,誰かが麻酔に責任をもたなければならないのと同じように,鎮静するなら鎮静に責任をもたなければならない。眠らせるならその眠りに責任をもたなければならない。 子どもがすやすや眠っている姿は何ものにも代え難い宝のようなものであるが,薬物による眠りには気道閉塞や呼吸停止という危険が伴っていることを知っていなければならない。


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