眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第46回 心臓血管外科の麻酔(1)

天皇陛下が受けられた心臓手術

平成 24 年 2 月に,天皇陛下が心臓の手術を受けられることが決まってから,国民の心臓外科手術への関心が一気に高まった。テレビでは,何度も手術の内容が詳しく伝えられた。心臓の模型や図を使って,冠動脈の左下行枝や回旋枝に狭窄があり,その先に内胸動脈を吻合するという術式の説明さえもが行われた。また,有名な心臓外科医がテレビに登場して,手術の具体的な手順や術者の性格や腕前なども詳しく教えてくれた。あるテレビ局では実際に顕微鏡を使って血管模型で縫合の仕方まで見せてくれた。

国民は,天皇陛下の手術が無事に終わりますようにと祈り,皇居では,何万人もがご快癒の記帳をした。そして,「天皇陛下の手術は順調に終了しました」という報道に,みんながほっと胸をなで下ろした。手術が終わって 3 時間ほどして行われた記者会見では,東京大学病院の病院長,心臓血管外科教授,循環器内科教授,宮内庁侍医,そして執刀した順天堂大学心臓外科教授がそれぞれ落ち着いた雰囲気で,そして満足した表情で,手術の様子と今後の見込み等を語った。

私としては,できたら会見の場に麻酔科の教授も同席して欲しかったが,狭いセミナー室のような会場だったので人数の制限もあったのだろう。「麻酔からの覚めも順調で」という外科医の説明に,それこそ担当した麻酔科医が語りたかったことだっただろうにという思いもした。それにしても, 緊張の中での麻酔の仕事を見事に成し終えた麻酔科医の皆さんに,ご苦労様でしたと労いたい。

心臓手術のめざましい進歩

今回の手術は,冠動脈バイパス術であるが,心臓手術とはいうものの,心臓そのものに対する手術ではなく,心臓を囲む血管に対する手術であり,血管縫合術といっていいものである。心臓の中の手術は開心術といい,代表的なものとして,心臓弁膜症に対する弁置換手術や先天性心臓病に対する根治術がある。開心術は動いている心臓を止めて手術をするため,人工心肺装置(ポンプ)が必要になってくる。冠動脈バイパス術も心臓を止めて行う方法(オンポンプバイパス)と,今回のようにポンプを使わずに行う方法(オフポンプバイパス)の二通りがある。当初はオンポンプで行われていたが,最近はオフポンプの手術が多くなっている。

私は,麻酔科医としてこの 35 年間の心臓手術の進歩を目の当たりにしてきた。それは,実に画期的な進歩といっていいだろう。昔だったら成功率が低く助からなかった手術が今では何事もなかったかの如く,スムーズに進んでいく。人工心肺からなかなか立ち上がらなかった心臓が,今ではほとんどスムーズに立ち上がるようになった。

心臓手術がスムーズに安全にできるようになったと同時に,麻酔からの目醒めもスムーズになった。以前は心臓手術の後は,しっかりと眠った状態で集中治療室に移動し,心臓の回復と呼吸の安定を図ってから覚醒させていたが,最近は手術直後に手術室内で覚醒させることもできる。天皇陛下の場合も,手術が終わったあと,時間を空けずに麻酔からお目覚めになり,「ご気分は如何ですか」と言葉をおかけしたところ,うなずかれたということである。

心臓手術の進歩には,手技の向上のほかに,手術関連医療機器の開発や画像診断技術の進歩も欠かせない。手術前に病変や手術部位がしっかりと診断できるようになったために,心臓の奇形や血管の閉塞,弁の異常なども手術前に正確にわかるようになった。手術に臨んでから診断が間違っていたというようなことがなくなった。内科的診断や治療の向上も手術の向上に大きくつながっている。さらに,麻酔薬や循環作動薬などの医薬品の開発も大きな貢献をしている。

手術の舞台裏:麻酔科医の生き甲斐

私が心臓手術の麻酔を始めた頃のことである。70 歳代の T さんという女性が緊急手術を受けることになった。心筋梗塞を起こし心室に瘤が出来き,重症の不整脈が頻発するので,手術をすることになった。麻酔を担当することになった私は,すでに血圧が低下して,ショック状態に近い女性に麻酔をしたら,麻酔で命を落とすのではないかという心配もあったが,麻薬と鎮静薬を少量ずつ滴定しながらなんとか麻酔を導入し,人工心肺の装着までこぎつけることができた。

心臓外科医は,止まった心臓を開き,瘤を切除し,縫い縮めた。そして修復が終了したので,人工心肺から離脱しようとした。心臓が動き出し始める。心臓に負荷をかけていく。すると,修復したところから血が噴き出している。外科医はこのままでは,うまくいかないと判断して,再度心臓を止めて修復し直すことにした。

人工心肺下に再修復して再度,立ち上げようとした。しかし,今度は心臓が動いてくれない。心臓を動かそうと心臓を刺激する薬を投与するが,それでも心臓の動きが悪い。心臓手術の麻酔の中で,最も大切な場面は,この人工心肺からの立ち上げ時の管理にある。麻酔科医は,全神経をつぎ込んで,心臓と血管と血液量の最適化を図ろうとする。

なかなか立ち上がらない心臓を見て,心臓外科医はもう一度人工心肺を回して心臓を止めることにした。しばらく心臓を休ませてから立ち上げようという判断だった。昼に始まった手術だったが,深夜を過ぎていた。もうこれが最後の人工心肺からの立ち上げになるだろう。それで上手く行かなければあきらめるしかない。心臓外科医も麻酔科医もこれが最後の賭けになるだろうという思いだった。

私たちは,心筋梗塞でダメージを受けた心臓にとって,瘤を切り取られ縫い縮められた心臓にとって,助けられるポイントがあるとしたらそれはどこか,試行錯誤した。T さんの心臓にとって,耐えられるぎりぎりの負荷はどこにあるのか,立ち上がれる収縮の強さはどの程度が最も適切なのか,受け入れられる血圧はいくらなのか,助かる一点のポイントを探して,薬の調節と血液量の調節を行った。

そして,三度目の離脱で,なんとか人工心肺から立ち上がることができた。心臓外科医も私も,そして看護師も臨床工学技士も,そこにいた全員が,「よし,なんとかこのまま動きつづけてくれ」という思いだった。手術は終了し,術後の集中治療室で約2週間の管理をなんとか切り抜けて,T さんは人工呼吸器からも離脱できた。

私は,その半年後に病棟の廊下を歩いている T さんを見た。娘さんに手を添えられてはいたが,自分の足でしっかりと歩いている T さんを見た。麻酔科医として,T さんが眠っている間ではあったが T さんに手を添えることができてよかったと心から思った。麻酔科医は,舞台の上に出たり,会見の場に出る必要は無いが,舞台裏でしっかりと患者さんを支えることに生き甲斐を感じている。


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