眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第20回 産科の麻酔 ─ 帝王切開(2)

母体の出血リスク

帝王切開に伴う大きなリスクの一つは,出血である。子宮壁を切開すれば,出血する。胎盤を剥離すれば出血する。子宮が弛緩すれば出血する。帝王切開ではときに大出血が起きる。癒着胎盤があれば子宮を摘出しなければ収まらないような大出血が起きる可能性もある。胎盤は,妊娠中に母親と胎児をつなぐ重要な役割を担っているが,役目を終えると普通は自然に,あるいは容易に子宮から脱落する。しかし,何らかの理由で胎盤が子宮に食い込んでいることがある。それが癒着胎盤であり,無理にはがそうとすると大出血する。

癒着胎盤が起きる理由のなかで,もっとも頻度が高いのが帝王切開の経験である。一度帝王切開をすると,その次に妊娠したときに,子宮の古傷に胎盤が癒着しやすくなる。最近帝王切開が増えているが,それゆえにまた癒着胎盤の頻度も増加する。

先日のことであるが,私たちの病院でも癒着胎盤の帝王切開があり,約 1 時間のうちに 5,000 ml の出血,2 時間で 10,000 ml 以上の出血があった。手術前の診断で癒着胎盤が疑われており,それなりに準備をして臨んだ手術であったが,予想を超える大量出血になってしまった。幸い,ぎりぎりのところで輸血が間に合って助けることができたが,ショック状態すれすれの麻酔だった。麻酔には麻酔担当医はもちろんのこと,空いている麻酔科医が全員招集され,7人がかりで麻酔管理を行った。輸血センターでの血液の準備,輸血路の確保,血液加温装置,急速輸血ポンプの使用など,大量出血患者への救命体制が整っていなければ助けることができなかったであろう。ポンプを最大限に回しても出血量に輸血が間に合わないときは,麻酔科医の手がポンプになって輸血を行った。妊婦の血液は他人の血液にほとんど置き換わってしまったけれども,それでも彼女は自分であり続けることができた。

胎児のリスク

帝王切開では胎児のリスクも考慮しなければならない。娩出後に呼吸をしてくれるだろうか。泣いてくれるだろうか。予期しなかった異常はないだろうか。蘇生はうまくいくだろうか。そんな不安をどこかに置きながら,帝王切開の麻酔に臨む。児が呼吸しなければ人工呼吸が必要になる。気管挿管しなければならない。低酸素脳症が起きないようにしなければならない。これらは,娩出後数分以内に対処しなければならないわけで,母親の麻酔管理とは別に新生児を管理するもう一人の麻酔科医が必要になる。施設によっては新生児科の医師が手術室に同行し新生児の蘇生をすることもある。

帝王切開の麻酔は,時間に余裕がない時は全身麻酔を,少し余裕があるときは脊髄くも膜下麻酔を行う。脊髄くも膜下麻酔は背中から脊髄近くに針を刺して手術する部位の痛みをとる方法である。子宮が腹部の静脈を圧迫して心臓に戻る血液量が減少し,血圧の低下がしばしば起きるから注意が必要である。もう少し時間があるときは,硬膜外麻酔といって,術後の痛みもとれるように細い管を留置する方法を用いる。全身麻酔では,麻酔薬が胎児に移行しないようにしなければならない。胎児が麻酔されないようにしなければならない。そのため,麻酔と手術を同時進行で始める。普通の手術なら麻酔がかかってから皮膚の消毒が始まるが,帝王切開では消毒を先に行い,麻酔の開始とともに手術が始まる。

麻酔の開始と同時進行の手術 ─ 新生児の泣き声と溢れ出るよろこび

手術台の上で,妊婦の両手と両足がしっかりと固定される。手洗いを済ました産科医がマスクをつけて,手術室に入ってくる。産科医は,ガウンを着て,手袋をはめると,腹部の消毒を始める。両手を広げて横になっている妊婦は下腹部に消毒液の冷たい感触を味わう。敷布が被せられると,妊婦にはもう麻酔科医しか目に入らない。無影灯のスイッチが入れられ術野が明るく照らし出される。看護師が産科医にメスを手渡す。

産科医が妊婦の名前を確認し,「これから帝王切開を行います」と宣言する。産科医は麻酔科医に目配せをする。麻酔科医は「では麻酔を開始します」と告げる。麻酔科医は妊婦の顔にマスクを当て,酸素を投与する。そして,看護師に麻酔薬と筋弛緩薬を点滴路から注入するように告げる。妊婦は 20 秒後には深い眠りに陥る。30 秒後には,手足の指や顔に震えが出る。筋肉が細かく収縮した後,完全に弛緩する。「それでは手術を開始してください。よろしくお願いします」と麻酔科医が言う。

産科医は下腹部にメスを当て,皮膚が開かれていく。麻酔科医は,妊婦の口に喉頭鏡を挿入し,声帯を確認し,気管挿管を行う。気管チューブを固定し,人工呼吸を始める。産科医は子宮を切開し,片手で胎児の頭を持ち,片手で腹部を圧迫する。胎児が押し出されると,産科医は鉗子を持って胎児と胎盤を繋げている臍帯をクランプする。新生児はまだ泣かない。産科医は新生児を抱え上げる。しかし,まだ泣かない。

産科医は新生児を手術台の横にある加温装置付き処置台に乗せる。手袋をしたもう一人の麻酔科医が新生児を受け取り,体を刺激する。口の中に吸引チューブを入れて飲み込んでいた羊水を吸引する。背中をこすって刺激する。まだ泣かない。肌の色が暗い。助産婦が新生児の足裏をたたく。新生児がびっくりしたように手足を震わす。顔をしかめる。なおも刺激する。すると,新生児が泣き始める。「あぎゃー,あぎゃー」と泣き出す。「もっと泣け,もっと泣け」と刺激する。泣き声がさらに大きくなる。「あぎゃー,ぎゃー,ぎゃーてい」みるみる新生児の肌の色がピンク色に変わっていく。


この一瞬にその場の医療者たちが安心する。赤ん坊の泣き声に,麻酔科医のよろこびが溢れてくる。
「あぎゃー,あぎゃ,ぎゃてい,ぎゃてい,はーら,ぎゃてい」
赤ん坊の泣き声が真言(マントラ)のように手術室に響きわたる。「釈迦牟尼仏はおっしゃいました。『あなたがこの世に生まれて始めてだした声には,そのまま仏の本声があります』」(立松和平著「道元禅師」より)。帝王切開の麻酔をするたびに,赤ん坊の第一声を聞くたびに,生命のちからを思う。この世界に現れた新しい帝に私たちの希望を掲げる。

掲帝(ぎゃてい),掲帝(ぎゃてい),般羅掲帝(はらぎゃてい),「歩めよ,歩めよ,ただ歩めよ,歩めばやがて行きつかん。すべてを解脱した彼の岸に。スヴァーハー」(桐山靖雄著「般若心経瞑想法」より)


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