眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第48回 エホバの証人の麻酔

澄んだ目をした患者さん

澄み切った目をした患者さんに出会った。手術前日に,患者さんの病室を訪問した時のことだった。病室に入って,「明日麻酔を担当します,麻酔科医のほかです」と告げると,患者さんは私に微笑んで,「どうぞ,そこにおかけ下さい」と椅子を指さした。

「これを差し上げますので,読んでいただけますか」と言って,数冊の小冊子を私に手渡した。その表紙には,[神の愛を信じなさい]と書かれていた。私は,「はあ」とうなずき,しばらく言葉に詰まってしまった。
 その患者さんは,澄んだ目で私に,「お願いですので,もし,輸血が必要になっても決して輸血をしないで下さい」と話した。
「どうしてですか?」
「神のみこころにしたがうためです。もし輸血を受けると,神を愛せなくなります。神に背くことになります」
「あなたは,エホバの証人の方ですか」
「はい,私も夫も,子どもたちも,聖書の教えにしたがって,血液を拒否しています」

その患者さんは,耳鼻科で甲状腺の手術が予定されていた。エホバの証人であるという重要な情報がどうして入院前に知らされなかったのか,よくわからなかったが,話し合いの結果,最終的に,耳鼻科の教授からの「小さな手術であり,輸血の可能性はほとんどありませんので,麻酔を引き受けてください」という依頼を受けて,麻酔を引き受けることになった。

耳鼻科の執刀医は,経験は豊富なものの,やや興奮しやすい女医さんだった。麻酔は全身麻酔で行い,手術が始まった。甲状腺の手術で出血も少ないと予想されていたが,女医は思わぬ苦戦を強いられた。なかなか手術が思うように進まない。じわじわと出血が続いた。

女医にあせりの表情が読み取れた。麻酔科医の私も,心のあせりをかくせない女医の震えるような手つきを見て,不安がよぎった。もし,このままこの患者さんの出血が続いたらどうなるのだろう。不安は次第に恐れに変わっていった。

輸血以外に助からない場面になったらどうしたらいいだろう。澄み切った目をしたこの患者さんを麻酔したまま死なせることができるだろうか。助かる命を見過ごすことができるだろうか。

輸血はしない方針だったが,最後は輸血をして助けてしまうのではないだろうか。そうしたら,命は助かっても,この患者さんは神に見放されてしまう。生きている意味をなくしてしまうだろう。患者さんから生涯にわたる悔恨と非難を受けることになるだろう。

私は,そんな窮極の決断を迫られる場面にどうかならないで下さいと,神に祈った。神様が聞いてくれたのか,出血はおさまり,輸血をせずに無事に手術は終了した。

私が麻酔を始めたその頃,手術を受ける患者さんが宗教的理由で輸血を拒否するエホバの証人であるとわかると,手術は中止になり,患者さんには転院してもらうのが普通だった。まったく輸血の可能性がない手術なら引き受けることもあったが,わずかでも輸血の可能性がある時は,その病院では手術はしないということになっていた。

輸血を拒否するのは患者さんの権利であるが,患者さんを自分の手で死なすことになりかねない手術を回避するのも医師の権利だとみなされた。ところが,それは患者さんの医療を受ける権利を奪ってもいた。

医師の中には,患者さんから医療を受けるチャンスを奪うべきではないとして,患者さんが望むなら,出血死を覚悟して,どんな手術も引き受けるという医師もいる。実際に通常なら輸血が必要な心臓手術を,無輸血で成功させた心臓外科医も身近にいる。

宗教的輸血拒否に関するガイドライン

エホバの証人の治療には,いろんな考え方があるが,2008 年 2 月に発表された5学会(日本輸血・細胞治療学会,日本麻酔科学会,日本外科学会,日本小児科学会,日本産婦人科学会)による「宗教的輸血拒否に関するガイドライン」には次のように書かれている。
「当事者が 18 歳以上の場合は,(1)医療者が無輸血治療を最後まで貫く場合は当事者から免責証明書を提出してもらう。(2)医療者は無輸血治療が難しいと判断した場合は早めに転院を勧告する。当事者が 18 歳未満で判断能力がない場合には,15 歳以上と未満で場合分けされるものの,基本的には両親(親権者)がたとえ輸血を拒否しても子どもの人権を守るために最終的に必要な場合は輸血をする。」

さて,このガイドラインで問題点がすっきりと解決できただろうか。そんなことはない。医療者が無輸血治療でいくときには免責証明書をもらうこと,そして無輸血治療が難しいと判断した場合は転院させること,という二つの場合が説明されている。そのどちらにも合致しない場合はどうすればいいのだろうか。

例えば,救命救急センターに出血性ショックで運ばれてきた患者さんに対する救命処置は無輸血治療では救えないという状況であるが,その際には早めの退院を勧告するといった時間的余裕も十分なインフォームドコンセントを取得することもできない。

また,手術を受ける患者さんに対して,どういった手術に無輸血治療が難しいと判断するのか,すべての手術や侵襲的手技を無輸血治療が難しいとして退院勧告の対象としていいかどうか迷ってしまう。

さらに,入院時には医師が無輸血治療を最後まで貫くと判断したものの,入院中に予期せぬ出血が生じた場合,そのまま出血死させてよいのかどうか,実際の医療現場で判断に迷うことも多い。

また,転院させるとして,転院先の病院ではどうすればいいのだろうか。ガイドラインにそって,さらに転院させるのか。エホバの証人のための病院があるのならいいのだが,そんな病院が近くにあるとは聞いたことがない。

計り知れない次元にあるもの

若いときには,たとえどんなことがあっても患者さんを死なせてはいけないという思いが強かった。だから,エホバの証人の患者さんの主張は身勝手なものに思えた。自分は死んでもいいから,輸血をしないでくれ。輸血無しで死んだとしても死なせたあなたを責めはしませんから。といっても,死なせた本人は,一生,死なせたことを苦しまなければいけない。

自分が手術した場合の出血でなければいいかもしれない。動脈瘤が破裂して出血するとか,胃潰瘍から出血するというのなら,患者さんが輸血してまで助かりたくないという,その自己決定権を尊重することができるだろう。医師として助かる方法があるのにその治療を提供できないというつらさは残っても,死なせたという罪の意識は少なくて済むだろう。

しかし,自分のメスで出血させた時は,その出血で死なせてしまったら大きな悔いが残る。患者さんは,神への愛のために信義を貫き,死んで神のもとに行けたとしても,医師は自分の手で死なせてしまったという十字架を一生背負って生きていかなければならない。それを背負わせるのはやはり身勝手ではないかという思いが強かった。

この頃,年齢を重ねてくると,少し違った考え方も浮かんでくる。もちろん若い医師には,自分の手術や麻酔で患者さんを失うような経験をしてほしくはないし,そんな十字架を背負って欲しくない。

しかし,もし医師が自分で最善を尽くしたのなら,患者さんが望むなら,輸血なしで死んでも仕方がないのかもしれない。死を敗北としなければ,それもありではなかろうか。

医療の目的が患者さんの命の延長ではなく,仕合わせであるとしたら,患者さんの仕合わせのためなら,医師が不仕合わせを背負うことも医師の務めではないだろうか。死を敗北と思わなければ,医師の不仕合わせも軽くなるのではなかろうか。

なにしろ,生きるか死ぬかは患者さんの問題であり,医師は生かすか死なすかの問題である。どちらがより切実か。それはやはり生きるか死ぬかであろう。その生きるか死ぬかよりも,もっと切実なものとして神への愛があると信じているひとたちの仕合わせは,私たちには計り知れない次元にあるのではないだろうか。澄んだ目は,そのような人たちだけがもつことができる確信に満ちた目なのだろう。


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