眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第50回 痛みへの想像力

ある日常風景

先日,神戸で学会があった。電車を利用して学会場に向かっていた時のことである。途中の駅で制服を着た数人の中学生が電車に乗り込んで来た。彼らはドアの近くに集まり,楽しそうに冗談を言い合いながらはしゃいでいるようだった。すると走行中に電車が揺れ,座っている私の前に一人の少年が倒れかかってきた。私は手を差し出そうとしたが,まわりの中学生たちが彼をかかえた。その時,彼の腕が後ろから二人の少年に羽交い締めされていることに気づいた。

彼は一瞬,私に痛そうな表情を見せたが,立ち上がったあとは仲間に笑顔を見せていた。彼は体をくねらせてしめられていた腕をなんとかほどくことができたが,今度は別の少年が後ろから彼の首に腕を巻き付けてきた。プロレスごっこをしているようにも見えた。小柄で気弱そうな少年を数人でいじめているようにも見えた。彼がふたたびよろけて私の方に倒れかかったとき,少年の中のひとりが彼に向かって,「バカ,死ね」と言った。彼は,それでも笑い顔を作っていた。他の少年たちはけらけら笑っていた。電車が駅に到着すると,少年たちはドアからどやどやと降りて行った。

テレビでは,昨年起きたある中学校のいじめ事件が話題になっている。少年は複数の生徒からいじめを受けて自殺したと報道されている。肉体的に,精神的に痛めつけられた少年は,なんとか精一杯の SOS を出したがまわりには届かなかった。痛めつけている生徒たちは痛む彼を見て,ますますいじめをエスカレートさせていった。親も教師も他の生徒たちもいじめを止めることができなかった。いじめられている少年と同学年の一人の少女と少年の両親だけが学校や警察に助けをもとめたが,真剣に受けとめてもらえなかった。結局,いじめられた少年だけが死を選び,少年の両親だけが死を食い止められなかったことを生涯にわたって悔い,いじめた側やいじめを見ようとしなかった人たちは,一時的な謝罪や反省の時間を経て,ふたたび何事も無かったかのように社会生活を営むことだろう。

他者の痛みに鈍感になった社会

この国に,いじめや虐待が日常化している社会がある。いつの時代にもあったことであるとか,人間の性であるとかいってすますことはできない。また,この学校だけの問題であるとか,ある家庭だけの問題であるとすますことはできない。この国のこの社会が作り出しているのである。私たちが作り出しているのである。他者の痛みに鈍感になっているこの社会が作り出しているのである。自分の痛みに過剰に反応し,自分の周りから痛みを徹底的に排除しようとする,この社会が作り出しているのである。自分の快感や快楽をどこまでも追求するかわりに,他人の不快や痛みを無視しようとする,この社会が作り出しているのである。

いじめられている子が「痛い」と叫んでいる。いじめている子が「バカ死ね」と言う。まわりの子どもたちは,いじめられている子の「痛み」から目を背ける。いじめがあったのではないかという指摘を受けた先生も学校も,なかったことにしようと,いじめられた子の「痛みの声」を聴こうとしない。

川上未映子の「ヘヴン」に描かれたいじめの世界が,小説の虚構を超えて,現実の社会に広がっていることをあらためて実感させられる。小説の中でしか描ききれないと思われるような異常ないじめが,実は現実の学校の中で起きている。小説では,いじめられて追いつめられた少年と少女が,最後は皆の前で素っ裸にされるほどの痛みを味わうが,それでも彼らは死を選ぶことはしなかった。

作者はいじめの結末を死で終わらせることをしなかった。そこに一縷の救いがある。少女のコジマがみせた「それでもいじめる相手を笑うこと」に一縷の救いがあるように思われる。インドのガンジーの非暴力主義にもつながるようなコジマの強さが,いじめられる側に残された唯一の抵抗であり,いじめへの究極の勝利であるように思われる。それは,フランクルの本のタイトルにもなっている「それでも人生にイエスという」という言葉と重なってもいる。

弱者に痛みが集中する社会構造

この国は,痛みを弱者に押しつけ,生け贄のごとく特定の弱者に痛みを集中する社会になってしまった。自分の安楽のためには他者の痛みなどどうでもよいという社会になってしまった。もちろんそうでない人たちも多いが,全体にはそんな社会に傾斜している。どの時代からそうなったのか,それは,この国がなによりも生活の豊かさを求め始めた頃からのように思われる。それは,こころの豊かさを犠牲にしてモノの豊かさを求めていった頃であり,原子力発電に頼り始めた頃にも重なってくる。

国民が豊かな国になるように,贅沢で安楽な生活ができるように,そして痛みを感じないですむ世界になるように,この国は目指してきた。そのため,豊かさの対極にあるような我慢や節約を忘れ,周りに溢れる痛みには目をつぶるようになった。安楽を否定しかねないリスクに対しては想定外として考えないようになった。

国が滅びるかもしれない原発に依然として頼らざるを得ないと考えている人たちがいる。政治家も電力会社も経済人もそのように喧伝して,国民の生活を守るために,原発が必要であると訴えている。衣食住に足りている人が,その衣食住を守るために,節電しては困るといって,原発事故で土地を追われた人たちの苦痛をないものにしようとしている。何万年にわたって消えない放射性物質を地球上にさらに増やしつづけても,いまの生活を楽しみたいからといって原発を稼働させようとしている人たちがいる。将来の子供たちが生活する地上に,決して無毒化できない放射性物質を積み残しても,今の生活水準を維持するために原発を稼働させようとしている人たちがいる。

市場原理の中で,経済優先の社会の中で,人々は痛みへの想像力をなくしてしまったのではないだろうか。痛みの想像力が欠如した社会が出来上がってしまったのでないだろうか。そして,想像したくない痛みを想定外として近づけないようにする。そうすることで人々は不安を払拭しようとしている。想定不適当な事故として原発事故さえも想像しないようにしている。

すでに起きてしまった原発事故を当事者の電力会社は社内調査書で想定外として片付けようとした。大掛かりな調査をおこなった第三者による調査委員会は,これは人災であると結論した。その膨大な調査と結論に敬意を払うとともに,私には依然として消えないわだかまりが残る。

福島第一原発事故は,この国が起こした国災ではないか。社会全体がひき起した災いではないのか。第二次世界大戦をこの国が起こしてしまった時の事情と,実はさほど変わらぬ事情が知らないうちにこの国に広がってしまったのではないだろうか。祖国の繁栄と領土拡大をねらった戦争が広島と長崎の原爆で終止符を打ったように,国民の享楽と無痛拡大をねらった社会も福島原子力発電所の爆発で終止符が打たれてもいいのではないか。

痛みへの想像力を持って「痛みの声」を聴け

今こそ東日本大震災の傷跡を眼に焼き付けなければならない。住民が住めない土地になってしまった福島の美しいふるさとの山々や村々から眼を背けてはいけない。国民の生活が第一といって都市の都合で地方の少数の弱者を排除してはいけない。

政治家が票を集めるために「国民の生活が第一」と主張するのは仕方がないかもしれないが,私たちは,自分の豊かな生活を第一にするのではなく,心の豊かさを第一にしなければならない。こころの豊かさよりも生活の豊かさを追いかけている限り,そして,そのために他者の痛みから遠ざかる限り,この国に本当の豊かさは訪れないだろう。私たちは,いじめられている人たちの,虐げられている人たちの,「痛みの声」を真剣に聴かなければならない。社会の底辺で,痛みを押し付けられている人たちの声にいまこそ耳をすまさなければならない。

本連載も今回で 50 回目を迎えた。丁度よい区切りの時を迎えた。そろそろ潮時だと思うので,本号を最終回としたい。最終回ということで,少々力みすぎた文章にもなってしまったが,お許しいただきたい。

最後に,もし本連載を楽しみにしてくれた読者がおられたとしたら,その方には心から感謝申し上げたい。そして何より,本連載を取り上げていただいたメディカルフロントインターナショナルリミテッドの皆さん,とくに最初から最後までお世話になった加藤治義様に心からお礼を申し上げたい。

編集部から

2007 年 5 月に第 1 回「麻酔は必要悪」の WEB 掲載を開始して,今回の第 50 回で連載を終えることになりました。5 年 2 カ月あまりご執筆を賜りました外須美夫先生とご愛読いただきました読者の皆さまに厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。


本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)の詳細 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)の詳細 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)を直接注文する 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)をAmazonで注文する


Copyright © 2006-2019; Medical Front Int. Ltd. All Rights Reserved.