眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第31回 痛みが進んでいる?

PAIN PROGRESS (痛みが進んでいる)

アメリカ麻酔学会からの帰路途中のことである。ロサンゼルス発成田行きの飛行機が水平飛行に移り,すでに何時間かが経っていた。機内の照明も暗くなり,乗客たちは,座席前の小さなディスプレイで映画を見るか,本を読むか,あるいは眠っていた。遠くで小さな子どもの泣き声が聞こえる。かなり前から泣き声は聞こえていたが,離れているせいか,気にも留めていなかった。しかし,その泣き声がなかなか止まない。なにか思い通りにならないことがあるのだろう,自由にならないことがあってぐずっているのだろう。そう思っていたが,次第に哀切を帯びた泣き声に,痛々しい懇願するような泣き声に変わっているようにも感じていた。

私は中国の農家を舞台にした映画を観ていたが,学会の疲れからか,食事のときに飲んだワインのせいか,うとうととし始めてもいた。すると,放映されていた映画が突然,停止して,画面に「PAIN PROGRESS」という表示が現れた。「PAIN」すなわち痛みが「PROGRESS」(進行する)ということは,「痛みが進んでいる」。飛行機の痛み(傷み)が進んでいるとしたら,これは大事ではないか,なにが起きたのだろうと私は驚いて覚醒した。と同時に,機内にアナウンスが流れた。「乗客の中に医者はいませんか」というアナウンスである。私は反射的に手を挙げて立ち上がった。医者たる者はどこに居ても,助けが必要な人がいたら,迷わず助けにいかなければならない。軽症でも重症でも,呼吸が原因でも,心臓が原因でも,脳が原因でも,倒れている人がいれば,苦しんでいる人がいれば助けにいかなければならない。麻酔科医は蘇生のプロなのだから,率先して助けに行かなければならない,というような使命感とか義務感からではないが,麻酔科医の私の足と手は医者を求めるアナウンスに無意識的に反応した。

乗客の中に医者はいませんか?

立ち上がった私に客室乗務員が近寄って来て,後方に案内してくれた。スチュワーデスが案内してくれた場所には,高度肥満の 30 代ぐらいの白人の女性が座っていた。意識はしっかりとあったので,きっと狭心症の発作でも起きたのではないかと一瞬推測したが,その女性が指さしたのは,胸のあたりではなく,隣の座席に座っている3歳くらいの小さな女の子である。女の子が痛そうに顔をしかめている。さっきから泣いていたのはこの子だったのだ。痛みが進んでいるのは実はこの子だったのだ。

医者はいませんかというアナウンスに集まったのは,私とあと二人の計三人だった。三人とも日本人だった。若い青年医師の二人は,某大学病院の心臓外科医であると名乗った。彼らは,泣いている子どもが相手だとわかると,私の専門は大人の心臓なので失礼しますと言って席に帰ってしまった。私はひとり残された格好になったが,私も小児科医ではないし,しかも子どもは意識も呼吸もあったので,麻酔科蘇生科の私の出番ではないのではないかと思った。それでも,母親の心配そうな顔と子どもの痛そうな顔を見て,席に戻るわけにはいかない。「どうしたのですか」と訊くと,その母親は「子どもの腕が動かない」と答えた。「いつからですか」と訊くと,子どもが言うことを聞かないので,さきほど私がちょっと腕を引っ張った時からだと言う。それは,ちょっとひっぱったのではないだろう。巨漢の母親にとってはちょっとのつもりなのだろうが,相当の力で引っ張られたのだろう。右腕をだらりと下げた少女の肩関節は見るからに完全に脱臼していた。

昔,医者になったばかりの頃,夜のバイト先の救急病院で,肩関節脱臼の患者が来たことがある。手に負えなかったので,院長を呼んで治してもらったことがある。その時,院長が「脱臼したら,引っ張って,回転させて,戻せばいいんだよ」と教えてくれた。その後,脱臼の整復術は整形外科の先生たちが手術室でするのを何度かみたことがある。しかし,この飛行機に院長が乗っているわけではない。私だけが医者としてここに残されており,整形外科医も誰もここにはいない。私は仕方なく,「私は麻酔科医ですが,経験も少ないですが,なんとかやってみましょう」と言って,スチュワーデスにどこかスペースはないかと訊ねた。彼女は手際よく,後方に少女が横になれるスペースを作ってくれた。私は,不安そうな少女を寝かせ,「ごめんね,ちょっと痛いけど頑張るんだよ」と言って,右腕を引っ張り,引き上げ,回転させてみた。そうすると,「カクッ」と音がして,はずれていた関節が元に戻ってくれた。幸運なことに脱臼していた肩関節を整復することができた。少女の泣き顔が笑顔に変わっていた。母親に「治りましたよ。もう大丈夫です」と告げると,巨漢の母親は喜んで私を両手で抱きしめてくれた。今度は私の関節が脱臼するのではないかと心配するほどの強い抱擁だった。スチュワーデスも喜んでくれたが抱擁はしてくれなかった。

PA IN PROGRESS (乗客へのお知らせ中)

私は席に戻り,映画の続きを観た。なんとなく興奮していたのだろう。2作目も見終わった頃,ディスプレイの画面に,再び,「PAIN PROGRESS」という表示が現れた。そして,「もうすぐ本機は着陸態勢に入ります」というアナウンスが流れた。着陸態勢がどうして「痛みが進む」ことになるのかよく分からなかった。なにかおかしい。そもそも画面に PAIN という言葉が出てくることがおかしい。そこで画面をもう一度よく見てみた。そうすると,PAIN という単語ではなく,PA と IN の間にスペースがあるではないか。「PAIN PROGRESS」ではなく,「PA IN PROGRESS」。痛みが進んでいるわけではない。「PA」とはきっと,Passenger Announcement のことだろう。だから,「PA IN PROGRESS」は,「乗客へのお知らせ中」ということだったのだ。

それにしても,みんなが略語を簡単に使いすぎる。人は言葉を略語化することと引換えに,言葉の味わいを無くしてしまっている。言葉を単純化し,記号化するようになり,人とモノとの関係が,人と人との関係がディジタル化していく。言葉で表しにくい感情や思いを抹殺し,ないものにしようとしていく。ディジタル化した社会では人間どうしのコミュニケーションはますます表面的なものになっていく。現在の情報化社会は,ますます人間を PAIN PROGRESSS の世界に向かわせているような気がする。


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