眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第45回 整形外科の麻酔

整形外科は骨と筋肉が相手である。骨は人間の骨格をなし,筋肉は運動の源である。人を支えるために骨があり,行動するために筋肉がある。だから,生活の中で骨と筋肉は酷使され,加齢と共に変形したり,損傷したりする。骨や筋肉の異常は痛みに直結するため,痛みで整形外科を受診する患者さんは多い。整形外科医はそういった骨や筋肉の変形や損傷の修復を行う。がんがいつか克服される時が来て外科手術が大幅に減る時が来るにしても,整形外科の手術だけは,人が生きていく限り避けられないものとして残っていくであろう。

骨も筋肉も全身至る所にあり,それぞれが独自の名前を持っている。骨の中には,涙骨や蝶形骨など美しい名の骨もある。教科書で習ったとおりの場所に,習ったとおりの形でそれぞれの骨や筋肉が形作られていることを確認していくのが人体解剖の実習である。人間の体は,こんなにも差別なく,同じ様に作られているのに,なぜ人間は争い,差別し,殺し合うのだろうかと,解剖をしながら思ったものである。

整形外科の手術は,骨折,変形,腫瘍などが対象となる。整形外科手術が他の手術と異なる点として,体位が挙げられる。手や足を持ち上げたり,側臥位や腹臥位になったり,手術に合わせてさまざまな体位をとる。患者は麻酔されているので,力が入らないし,感覚もない。長時間無理な体位をとらないように,神経を圧迫することがないように,麻酔科医は体位に十分に気をつけなければならない。また,高齢者が多いのも整形外科の特徴である。認知症が進んだ高齢者が転倒し,骨折で手術になることも多く,麻酔による合併症も起きやすいので注意が必要である。

骨の中でもとくに身体を支えている骨が脊椎の骨である。脊椎は身体の中心軸を支えるとともに,その中にある脊髄を守っている。脊椎に異常が起きると,脊髄に影響が及び様々な症状が生じる。痛みやしびれが典型的な症状であるが,重症になると麻痺が起きてしまう。脊椎ヘルニアや脊柱管狭窄症が代表的な疾患であるが,外傷によるものも多い。また脊椎の手術そのものが脊髄や神経を傷つける可能性もあり,手術もリスクを持っている。

全身麻酔科の頸椎整復固定術

脊椎のなかでも首の部分にある頸椎の障害はとくに危険である。その頸椎を交通事故で損傷した患者さんの麻酔を担当したことがある。大学の卒業を間近にしていた A 君は,バイクに乗り国道を走っていた。信号が黄色に変わったが,まだ間に合うと思って交差点を直進しようとした。そこに対向車線から右折車が入ってきた。バイクは車に衝突し,彼は大きく宙に舞った。彼が気づいたのは私たちの病院に搬送されてからだった。彼は,自分の手足の感覚を失い,手足を動かすことができない状態になっていた。X 線写真で頸椎が大きくずれており,重症の頸髄損傷を受けていた。すぐに緊急手術となり,全身麻酔下に頸椎の整復固定術が行われた。遠くにいる両親は手術には間に合わなかったが,急いで病院にやってきた。主治医から手術は成功し,一命は助かったが,手足の自由が戻ることは不可能に近いという説明があった。手足が動かない以上,食事も排泄も自分ではできない。

救命センターに入院していた A 君を私はしばしば見舞いにいったが,彼はいつも笑顔を絶やさなかった。少なくとも私たちの前では,交通事故の相手を怨むでもなく,不満を言うわけでもなく,笑顔で対応してくれた。突然の不幸を,受け入れられるはずのない一瞬の出来事を経験して,なぜ彼はこんなにも笑顔でいられるのだろう,その力はどこから来るのだろうかと私は思った。病室で必死になって動かなくなった手を動かそうとリハビリに努めていたが,やがて肩から腕のあたりがかすかに動く程度に回復したところで,彼は私たちの病院を退院しなければならなくなった。長期に及ぶ入院生活が必要であり,彼の地元の脊髄損傷センターで治療にあたることになった。関東から九州への転院には麻酔科の女医が付き添っていった。その後,彼がどうなったか,私はずっと気にはなっていたが,詳細を知ることはなかった。

驚異のリハビリテーションと障害を乗り越える強い意志

数年経って,A 君が今ひとりで生活しているという知らせを受けた。信じられないニュースだった。マンションを借りて一人で生活しているという。車椅子ながら電車に乗ることもできるという。脊損センターでのリハビリテーションで驚異的な回復を見せたらしい。なんという力であろう。たとえ脊髄が損傷しても,不思議な回復力が人間には宿っている。私はその脊損センターを訪れて,リハビリテーションの様子を見学させてもらった。そこには脊髄損傷の患者さんが何人もおられた。交通事故後に大阪からヘリコプターで運ばれたという少年もいたが,気管切開のため言葉も出ないものの必死にリハビリテーションに取り組み,驚くほどの回復を見せているという。

もちろん,どんなに頑張っても回復できないひともいるだろう。脊髄の損傷が大きければ神経の再生は不可能だろう。しかし,A 君も当初,一人で生活できるところまでの回復は不可能に近いとだれもが思った。その彼の奇跡的な回復を支えたものに,現代医学の進歩,とくにリハビリテーションの格段の進歩がある。もちろん,ご家族や友人たちや介護者たちも大きな力になっているに違いない。そして,たぶんそれら以上に,彼が持っていた回復への強い意志があるのではないだろうか。突然の不幸の到来を他人のせいにして嘆くのではなく,怨むのではなく,自ら引き受けて,乗り越えようとした彼の強い意志があるのではないだろうか。どんな病気も,事故も,絶望的状況も,運命として受け容れたとき,そして今を生きることに最善を注ぐとき,人は想像できないような力を発揮することができるのではないだろうか。


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