眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第29回 肺手術の麻酔

肺手術の多くは肺がん摘出術

肺手術の多くが肺がんの摘出術である。最近,肺がんの患者さんが増加している。日本人の死因の第1位はがん(悪性新生物)であるが,がん死の中では肺がんがトップを占めている。肺がんは他のがんに比べて治りにくいがんであるが,他のがんよりも発生要因が明確になっている。喫煙が肺がんの発生と密接な関係にあることはよく知られている。喫煙イコール癌ではないが,喫煙者は非喫煙者より肺がんのリスクが格段に高い。それを知った上でやはり愛煙家はタバコを吸い続ける。タバコあっての命ではなく,命あってのタバコだと思うのだけれど,そんな理屈は愛煙家には通じない。タバコを吸わなくても肺がんになる人がおり,タバコを吸ってもがんにならない人も多い。だからタバコをやめられない人は自分だけは大丈夫に違いないと自分に言い聞かしている。あるいは,がんになったときはあきらめるしかないと高を括っている人もいるだろう。愛煙家は癌になってもタバコを吸ったことを後悔だけはしないぞという覚悟はしていたほうがいいのではないだろうか。後悔するぐらいなら吸わないことである。

肺は生命の入口

肺は呼吸を行う臓器である。生命活動に最重要である酸素を外界から体内に取り入れるのが呼吸である。だから呼吸は生命の入り口である。呼吸を司る肺にがんが発生すると,生命活動の入り口が破綻する。肺がんの死亡率が高いのは,がんによる症状が生命活動に直結する呼吸機能を妨げるからである。また,がんによる症状が出たときにはすでに脳や骨など他の臓器に転移していることが多いということも肺がんが治りにくい理由の一つになっている。

肺がんを手術するといっても,肺を全部とるわけにはいかない。肺は左右に分かれ,さらに左右の肺は,右が3つの部屋に左が2つの部屋に分かれている。その部屋のことを肺葉という。右肺は上,中,下の3葉に,左肺は上,下の2葉に分かれている。肺がんの手術では,がんと肺葉を切除することになるが,がんの出来た場所と進行具合から,ときには右か左の肺をまるごと摘出する片肺摘出術を行うこともある。

呼吸管理の工夫

肺手術の麻酔管理は,手術部位が生命維持に不可欠な肺であるという点に特徴がある。麻酔科医の仕事の中でも最も重要とされる呼吸と循環の管理が,肺手術では困難になる可能性がある。麻酔科医は,肺を動かして呼吸を維持する。肺外科医は,肺を手術するので肺は動かないでほしい。昔の肺手術では,外科医と麻酔科医の闘いが繰り広げられていた。外科医が肺を圧迫して呼吸できないようにすれば,麻酔科医がそれでも肺を膨らませようとする。外科医が「いま呼吸を止めてくれ」といい,麻酔科医が「はやく呼吸をさせてくれ」という。上手な外科医と麻酔科医の間では,阿吽の呼吸で手術と呼吸が行われていた。そんな時代を経て,やがて,特殊な気管チューブが改良され,肺の動きを止めながら手術できるようになった。気管チューブが二股に分かれて右と左の肺を別々に呼吸させるダブルルーメンチューブが登場し,またチューブの位置を正確に知ることができるファイバースコープが使えるようになった。それにより,手術する側の肺を動かないようにして,正常な肺だけで呼吸を維持することができるようになった。肺外科医は呼吸に妨げられることなく安心して手術ができるようになり,麻酔科医も外科医の手を気にせずに呼吸管理ができる。

瞬時の危機管理能力が求められる麻酔科医

しかし,このダブルルーメンチューブにも落とし穴がある。留置したチューブが体位の移動や手術操作でずれてしまうのである。そのことに気づかずにいると,両側の肺で呼吸ができない状態になり,それにも気づかないと,心停止に至ることさえもある。もう 20 年以上前のことであるが,看護師が肺外科手術の部屋から出て来た。手には患者さんの動脈から採血した血液サンプルを持っており,これから測定室に行くところだった。看護師が持っていた血液サンプルはどす黒い色をしていた。私はそれを見て,あわてて部屋に入り,麻酔科医に「すぐに脱気しなさい」と叫んだ。ダブルルーメンチューブの位置がずれてチューブの先端にあるカフ(風船)が気道を閉塞していると思ったからである。心電図は徐脈になり,患者さんの心臓はいまにも止まりそうだった。患者さんの顔色はチアノーゼ色(青紫)に変わりつつあった。麻酔担当医は何が起きているのかわからないようだったが,呼吸できていないのを知って,青ざめていた。外科医はあっけに取られていたが,脱気して純酸素を送ると次第に脈が速くなり,患者さんの顔色も肌色に変わっていった。外科医が「そういえば術野の血液の色が黒いと思ったんだよな」と言ったが,気づいていたのなら早く教えてくれよ。

今では,パルスオキシメータやカプノメータというモニターがすべての患者さんに装着されるので,このような低酸素状態は早期発見できる。しかし,どのような状況が低酸素を起こしているかは麻酔科医が判断し,対処しなければならない。低酸素状態は危機的状態であり,猶予がないので早急に対処しなければならない。低酸素状態に直面したら,吸入しているガスに酸素が十分にあるか,肺は膨らんでいるか,気管チューブの位置は適切か,カフもれはないか,それとも肺塞栓といった予期せぬ原因で起きているのではないかなど,短時間にしらみつぶしに調べて原因を探っていく。このような瞬時の危機管理能力が麻酔科医には求められている。

肺外科では肺が目の前にある。肺は,肺胞という小さな袋の集まりで,その表面はピンク色をしている。子どもの肺は見事なピンク色であるが,成人になるにつれ少しずつ染みが出てくる。それでもタバコを吸っている人と吸わない人の差は歴然としている。タバコがやめられない人は,一度自分の肺の表面を見たらいい。タバコをやめる気になるのではないだろうか。自分の肺を見ることはできないから,ヘビースモーカーのどす黒く汚れた肺の写真を見せたらどうだろうか。禁煙に役立つのではないだろうか。しかし,愛煙家はそれぐらいではびくともしないだろう。どす黒い肺をみて,ピンク色の肺よりはるかに芸術的だと思うに違いない。また,黒々とした肺こそ長年の喫煙の勲章として,誇らしく引き受けるに違いない。


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