眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第25回 脳外科の麻酔

“脳”にメスを入れる脳外科医

全身麻酔というと全身が麻酔状態になるように思われるかもしれないが,実はそうではない。全身麻酔は,全身の知覚と運動を司る脳を麻酔して,脳の機能を一時的に低下させるのである。全身麻酔の場は脳である。その脳を手術するのが脳外科手術である。脳外科の手術は,大きく二つに分けられる。一つは脳腫瘍に対する手術であり,もう一つは,脳血管疾患に対する手術である。その他にも,先天的な異常や機能的な異常に対する手術もあるが,割合からすると腫瘍と血管の手術が大半を占める。脳が他の臓器と大きく異なるのは,もともと脳は人が容易に近づけないようになっていることである。脳は外部からの侵入ができないように頭蓋骨という固い骨に守られている。その触れてはいけないはずの脳に,脳外科医はメスを入れる。脳はどの部分であれ,大事な機能を発揮している。五感は脳によって生み出される。意識も脳で生み出される。あらゆる感覚は脳で作られる。手足の動きも脳でコントロールされる。心臓や呼吸の動きも脳が指令を出して調節している。脳外科医はその脳に切り込まなければならない。

後遺症をいかに少なくするかが腕の見せ所

外科医である以上,どの外科医も自分が手術する部位の臓器の解剖と機能は熟知していなければならない。肝臓外科医は肝臓の解剖と機能を,肺外科医は肺の解剖と機能をよく知っている必要がある。どこまで切除すれば大丈夫かといったことを知った上で手術しなければならない。しかし,肝臓の機能は切り取った肝臓と残った肝臓で違いはない。右の肺と左の肺で機能が違うということはない。残った部分が切り取られた部分の代わりに働くことができる。胃は切り取っても,腸管があればなんとか代償してくれる。腎臓も,片方が残れば機能的には問題はないし,両方を切り取ったとしても,人工透析という方法が残っている。

しかし,脳の場合は,切り取られた部位の独自の機能がそっくり失われてしまう。言語を司る脳部位を切除すると失語症になる。運動を司る部位を切り取ると麻痺になってしまう。聴覚の機能部位を切除すれば聞こえなくなり,視覚の機能部位を切除すれば見えなくなり,味覚の機能部位を切除すれば味がわからなくなる。脳外科では,腫瘍を切除する際も正常な部位をなるべく残して手術を行う。それは機能をなるべく温存させるためである。手術の成果を最大限に得ながら,後遺症をいかに少なく抑えるかが脳外科医の腕の見せ所でもある。

脳外科医は顕微鏡下に手術を行う。手元の操作を如何に正確に確実にできるかが脳外科医に問われている。手元がぶれることは他の外科医以上に許されない。手元がぶれると容易に血管が破れたり,脳に傷がついたりしてしまう。出血の処理も脳外科と他の外科では異なっている。脳では血管を結紮すると他の重要な部位へ血流がいかなくなるおそれがあるために血管を簡単に結紮するというわけにいかない。出血に対して,その部位を強く圧迫して止めるというやり方も脳では通用しない。柔らかい脳を強く圧迫するわけにはいかない。出血があれば,辛抱強く,ガーゼを当てて止血するのを待つしかない。電気メスで脳を焼いて止血することも制限される。

脳外科医の手は,脳という最上位の臓器を扱うためか,上手な脳外科医は,しばしば神の手を持つ医師と賞されることがある。それはマスコミが興味本位に作り上げている宣伝文句にすぎない。もちろん手術室に神はいない。神の手があれば病気を手術なしで治すだろう。外科医が自分の手を神の手と思うことはまずあり得ない。それは,数々の失敗の経験をよく知っているからである。自分のあるいは他人の失敗の経験をよく知っている外科医ほど,慎重にもなり,大胆にもなれる。外科医の手は神の手ではなく,プロの手,匠の手ともいうべきものである。プロの中のプロといえるような手さばきをする外科医もいるが,それは彼が豊富な経験と努力で獲得した勘ともいえる才能を活かしているからである。自分の手を,神の手ではなく,むしろ鬼の手と思う心があってこそ,難しい手術を成功に導くことができるのではないだろうか。

脳外科の麻酔の特徴

脳外科の麻酔は,麻酔と手術の場所が同じ脳であることが大きな特徴である。脳外科の麻酔では,患者さんが麻酔から醒めるのかどうかいつも心配である。麻酔から醒めないことはないといつも患者さんに説明しているが,脳を手術すると麻酔からは醒めても,意識が出ないことはありうる。意識を司る部位が手術により障害されると,麻酔の後に意識が戻らないことがある。だから,脳外科の麻酔では眠りから目醒めまで油断ができない。

脳は感覚を生み出す場所ではあるが,脳には感覚はない。脳は全身を知覚することができるが,脳自身を知覚することはできない。だから,脳を切っても痛みは感じない。脳外科の手術で全身麻酔が必要なわけは,脳に到達するまでが痛いからである。頭皮はもちろん痛みを感じる。頭蓋骨を削るときも痛みを感じる。しかし,脳自身は切っても触っても痛みは感じない。だから,脳を切るときにはさほど深い麻酔は必要ない。といっても,実際の脳外科の麻酔ではしっかりと麻酔しなければならない。それは,決して動くことがあってはならない。

脳手術では脳を電気刺激して筋肉の微妙な動きを電極で確認しながら作業するため,筋弛緩薬が使えないことが多い。筋弛緩薬が効いていれば患者さんは動くことはないから麻酔は楽なのであるが,筋弛緩薬が使えないためにしっかりした深い麻酔が求められる。麻酔深度のモニターに脳波がよく用いられるが,脳外科ではモニター装着部位が手術部位に近いため,それも使えないことが多い。麻酔深度モニターがないまま,麻酔薬の薬物動態を推測しながら麻酔することになる。患者ごとに違う可能性がある薬物の効果を一律に計算通りに当てはめて麻酔することに不安も残るが,多くの臨床はそんな確率の世界で進んでいる。

それにしても,患者さんの脳を見ながら,その脳を麻酔しているという不思議な感覚を,私の脳は感じながら麻酔をしている。


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