眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第26回 時間と空間

時間の流れ

筒井康隆の短編小説の中に「急流」という作品がある。時間の進み方が加速度的に早くなる話である。「朝便所に入って出てくるともう夜になっている」とか,「家を出る時には雪が降っていて会社に到着した時は夏のまっさかりで汗びっしょり」とか,「海水浴場では遊泳が禁止された。沖で泳いでいるうちに冬になり,凍死するやつが続出した為である」,など,そんなばかな,と笑ってしまう。最後には時間が滝になって流れ落ちていく話である。

加速度的というほどではないが,たしかに年齢を重ねるにつれて,時間の進み方がだんだん速くなっていくような気がする。時間の流れの中では,過ぎ去った時間は刻々と消えていく。過去の時間は,今ここになく,記憶の中にしかないので,記憶の中の時間と今の時間を比較することは所詮できないのだが,それでも今の時間は,昔の時間より,確実に速く進んでいるという確信に近い感覚がある。少年時代の1日や1週間や1年は今より随分長かった。朝から夕方まで,学校の授業はいかにも長くて,早く終わらないかといつも待ち遠しかった。子どもの頃でも遊びの時間は勉強の時間と違ってあっという間に過ぎていったが,それでも今から思うとしっかりと時間を使って遊んだという満足感があった。

中年後期という年代にさしかかっている今は,時間がどんどん過ぎてしまう。何かをし始めるともう1時間が過ぎている。いや何かをしようとして準備を始めただけで1時間が経ってしまうことがある。ときには何をしようかと考えている間に,1時間が経っていることだってある。時間をいつも気にしている自分がいて,時間に追われて仕事をしている。時間が主人で,私がそれに従っているような妙な関係にある。

退職して家で過ごすようになると,何もすることがなく,時間が経つのが途方もなく長く感じるようになると言う人もいるが,そんな時が来るとしたら,それはそれで楽しみでもある。時間がゆっくりと過ぎるようになるのなら,今はしたくても出来ないことをあれもしたい,これもしたいと思っている。読みたい本がたくさんあるし,ゆっくり旅にも出てみたい。山や森の中にこもる時間もいい。じっくり碁を打つのもいい。絵も描きたいし,彫刻もやってみたい,と思っている。しかし,本当のところ,それらは今忙しいからこそ,あれもこれもやってみたいと思っているのだろう。今は時間がなくて出来ないことを,将来は時間があれば出来るかというと決してそんなことはない。時間がなくて出来ないから不自由であるように思っているが,実は,時間があってもしないだろうし,時間があることで不自由感がますます増すのではないだろうか。

空間の感じ方,距離の感じ方

時間だけでなく,歳を重ねるにつれて,空間も狭く,距離も短くなったように感じる。少年時代の空間は今よりは随分と広がっていた。少年時代の 1 キロ向こうは,今より何倍も遠いところにあるように感じていた。昔住んでいたところを今訪れると,当時遊んでいた広場や公園がこんなに狭かったのかと思う。体が大きくなるにつれて,相対的に空間は小さくなる。目線が高くなり,遠くが見えるようになる。靴のサイズ25センチは,子どもの足には大きすぎるが,私の足から見れば,25センチの靴は小さすぎて入らない。空間認識は相対的なものだから,物差しの基準によって違ってくる。しかし,子どもと大人の体格の違い以上に,歳を取ると空間認識が違ってくるように思う。ランニングをして思うのだが,10年前の1キロの距離より今の1キロの方が短く感じる。

時間の要素が入るスピード感覚は逆で,昔とおなじスピードで1キロを走っているつもりでも,時計をみると思った以上に時間がかかっていることに気づく。例えば,1キロを 5 分のペースで走っているつもりでも,時計を見ると 5 分 30 秒かかっている。体感する速度は同じようでも,実際は時間がかかっていることになる。それはスピード感覚が昔と変わっていて,進み具合を速く感じるようになっていることを意味する。単純に体力が衰えてきたために,足のきつさから推測する速度より実際の速度は遅いということもあるかもしれない。速度は距離を時間で割って得られることからすると,距離が短くなる感覚よりも,時間が早く進む感覚の方が勝っているから,ある距離を走る速度を実際よりも速く感じてしまうのかもしれない。つまりは,時間が空間を上回って縮んでいるともいえる。

時間の認識と空間の認識

時間と空間についての感覚あるいは認知には,その人の経験が大きく影響する。人は生まれてからの時間を分母として,今の時間を認識するのではないだろうか。たとえば,10 歳のときの 1 年は人生の1/10の時間感覚だが,50 歳のときの 1 年はその人の人生の1/50の時間として感覚する。こうして歳を取ればとるほど,時間を短く感じるようになる。人はまた自分の生活空間を分母に周囲空間を認識するのではないだろうか。これまで過ごした空間が主に家の中なら,家空間が分母となり,家から学校や地域や地球に広がれば,その広がりが分母空間になる。だから,社会に出ると,分母空間が広がり,だんだんと世界が狭く感じられるようになっていく。

もう一つ,時間と空間についての感覚あるいは認知に大きな影響を与えるのが,期待や恐れである。未知のものに対する期待や恐れである。幼少年時代の時間と空間は,未知との出会いの場である。知らない道を歩くと遠いと感じるように,未経験の時間を過ごすと長いと感じる。そのように,未知の時間と空間は,期待と恐れが充満している分,広がりをもっている。

歳を取り,すでに同じ時間を何度も経験し,今日もまた同じように過ぎていくようになると,時間への期待や恐れが薄くなり,時間の密度も薄れている。同じように,同じ空間を長く経験していると,空間への期待や恐れがなくなり,空間がどんどん閉じていく。

終末期の時間と空間

人にとって,時間と空間に対する感覚が別次元の動きを始めるのは死を自覚した時であろう。緩和ケアという医療に長年取り組んでいると,人が消えていく運命を自覚するとき,時間や空間に対する感覚が特別なものになるように思われる。人はこの時間と空間の中で,生まれ,生活し,生きてきた。この時間と空間の中で,親と過ごし,友と交わり,師と出会い,大切な人と別れてきた。人は時間と空間の変化を味わってきた。終末期になると,時間の中に存在できず,空間の中に存在できず,存在そのものを失うことへの不安と怖さが襲ってくる。時間と空間は死んだ後も存在し続けるのに私はいなくなるという恐怖である。

しかし,すべての時間と空間は相対的なものであり,生も死も一瞬であり,生も死も永遠である。時間や空間の相対的な感覚や認知に自らが囚われている間は,まだ自分の意識から逃れられていない。所詮,自分から逃れられない自分の意識であるが,時間と空間を自分の外に意識すると,ますます死は時間と空間の中でもがき苦しむことになる。この時間と空間の中に自分がいるのではなく,自分の中に時間と空間がある。自分が生まれる前には,この時間と空間の中に自分は居らず,自分が死んだ後にも,時間と空間の世界は自分のまわりにはない。私は,人は皆,生まれる一瞬に生命誕生の40億年の歴史をたどり,死ぬ一瞬に永遠の時間を経験するのではないかとどこかで思っている。

私が消えるのと同じように,この海もこの地球もこの太陽もいつか消えてしまう。この地球が宇宙に偶然誕生したように,偶然わたしはこの時間と空間に誕生した。ならば時間と空間が私を存在たらしめている間に,時間と空間のことは,そのままに,あるがままにして,今できることを,心を澄ましてやるほかはない。


本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)の詳細 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)の詳細 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)を直接注文する 本書(眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート)をAmazonで注文する


Copyright © 2006-2019; Medical Front Int. Ltd. All Rights Reserved.