眠りと目醒めの間 ─ 麻酔科医ノート

九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学 教授  外 須美夫 著

第36回 東日本大震災(3):被災地へ

三陸海岸へ

職場を午後4時半に出て,空港付近の駐車場に車を置き,5時半発 JAL 便で羽田に向かった。連休前日にもかかわらず空港は閑散としている。羽田からモノレールと山手線で東京駅に行き,東北新幹線「やまびこ」の自由席に乗り込み,仙台駅近くの宿に着いたのが午後 11 時前だった。近くのコンビニで弁当を買って部屋で夕食をとり,「永遠の〇(ゼロ)」の続きを少し読んだ後,すぐに眠りに就いた。翌朝6時半におにぎりとみそ汁の朝食を摂り,レンタカー会社の前で8時の営業開始まで待ち,マツダのデミオを借りて,三陸沿岸に向かった。

仙台から三陸海岸までの道路沿いは,のどかな田園風景が続き,桜があちこちで満開を迎えていた。時々,自衛隊の災害救助車と出会ったが道が混むことは無かった。日本のどこにでも見られる山里の風景が続いている。山間をしばらく走り,緑豊かな景色の中で,ああこの辺一帯にも春が訪れているのだなあと思いながら,下り坂を右へ道なりにカーブを切って進んだ。その時だった。突然現れた前方の光景に私は言葉を失った。

南三陸町

南三陸町志津川地区の変わり果てた姿がそこにあった。津波到達線を境界に,10 メートル手前の山側には日常の景色があり,10 メートル向こうの海側には非日常の景色が広がっている。境界より手前には自然の豊かさがあり,向こうには自然の猛威があった。手前には生命が溢れ,向こうには生命の痕跡だけが残されている。境界より上では時間が流れ,下では時間が止まっている。

船が田畑に乗り上げている。車が逆立ちしている。家は流され,コンクリートの土台だけが残っている。電柱,樹木,庭,壁,机,椅子,本,箪笥,ふとん,衣類,電気器具,食器,生活必需品,生活の匂いのするあらゆるものが,粉々になり,泥の上に,泥の中に,泥の下に,混沌と散らばっている。人々が生活を営むために形作ってきた秩序が津波によって無秩序に崩されている。

この瓦礫の下に,海の向こうに,まだ多くの行方不明者が眠っている。私は車を何度も止め,被災地のただ中に立って,ただただ合掌するだけだった。

津波の到達地点

南三陸町から国道 45 号線を辿って三陸沿岸を北上した。国道はいったん山側に入り,そして,また海側に出る。海岸ごとに村落があり,どの村落も,どの町も,戦禍の跡のように,グラウンドゼロのように,平地となり荒野と化していた。津波は,区別無く容赦なく襲い,家々を倒し,家屋を壊し,町並みを潰し,人間を流した。どこも壊れ方は同じ様に見えるが,海面からの高さの違いによって,損害の大きさや被害の広さはそれぞれ異なっている。また,地形によっても津波の到達地点も異なっている。

道路沿いには町ごとに「津波浸水想定区域」という標識が立っている。津波が繰り返された歴史がそこに記されている。過去に大きな被害をもたらした津波の記憶がそこに刻まれている。明治以降では,明治 29 年の大津波(死者 26,360 人),昭和 8 年の大津波(死者 2,995 人),そして昭和 35 年のチリ地震津波(死者 105 人)がこの三陸海岸に大災害をもたらしている(吉村昭「三陸海岸大津波」文春文庫)。三陸海岸の人たちほど津波の怖さを知っている日本人はいないだろう。

明治 29 年の大津波は,午後 8 時過ぎに発生した。時刻は今回と違うが,ほぼ同数の死者を出している。この時の津波の高さは,本吉歌津村で 10.8 メートル,気仙沼郡吉浜で 24.4 メートル,下閉伊郡田野畑村で 22.9 メートルと記録されている(同)。しかし,この数字が正確に津波の高さを伝えるものとは限らない。下閉伊郡田野畑村に住んでいた人の証言では,高さ 50 メートルにある自宅まで海水が流れ込んできたという(同)。

三陸海岸が津波に襲われやすい理由として,三陸沖海底が震源域であることのほかに,海岸特有の地形が挙げられる。三陸海岸の湾は多くが V 字形をなしており,海底は湾口から奥に入るにしたがって急に浅くなっている。巨大なエネルギーを秘めた海水が,湾口から入りこむと,奥に進むにつれて急速に海水がふくれ上り,すさまじい大津波になるのである(同)。

津波浸水想定区域

私が走った国道 45 号線沿いでは,浸水想定区域近くまで津波が及んでいた。まるでその標識に合わせたように津波の先端が真下まで到達していた所もあった。けれどもその標識をはるかに越えて被害が及んでいる地域は見あたらなかった。標識が津波によって壊されているのを見たのは一カ所だけだった。つまりは,今回の津波の到達地点は,明治,昭和の大津波の経験を踏まえて各市町村が想定していた高さにほぼ合致するもので,決して想定外の高さではなかったことを意味している。

被害を受けた市町村は,津波浸水想定区域内に位置している。多くの人々が想定区域内の平地に生活していた。では津波浸水想定区域は何のために設定されていたのだろうか。住民たちはまさかそこまでは来ないだろうとたかをくくっていたのだろうか。いや,そうではないだろう。ここでは生きるために,過去の経験から想定される津波の高さより低い場所と知りながら,平地に住まざるを得なかったのである。海を生業にしている人たちが漁港の近くに集まるのは当たり前である。海で生きる人たちにとっては,美しい海の近くに住み,潮騒を聞きながら,潮風の中で生活することが当然のことだった。

田畑を耕すにも平地が必要であり,肥沃な平地は河口近くに広がっている。農を生業にする人たちも津波浸水想定区域内の平地に住まざるをえなかった。人が集まれば,商や工を生業にする人たちが住み,町ができる。津波が来ることは想定していても,住民たちは自分の土地から離れることはできない。なにより,先祖が築いた土地からたとえどんな理由があろうと離れることはできない。

さらにもう一つ。この三陸海岸地方は都会から遠く,漁業と農業以外は産業も少ない。大漁や豊作もあれば,不漁や不作もある。この地方は,昔から度重なる飢饉を経験している。僻地には高齢者が多い。このような土地で生きていくためには,津波浸水想定区域内であっても,みんなで寄り集まって助け合って生きていくしかない。

三陸沿岸の人たちは,巨大な防波堤や避難訓練など可能な限りの津波対策をとりながらも,それでも津波浸水想定区域内で,土地と家族と先祖と村の絆を大事にして,生きる覚悟をしていたのだと思う。

避難所

私は,本吉町に在る避難所の一つに立ち寄った。そこには,すでに組織だった医療チームが居たが,「痛みの治療で何かできることがあればと思って来ました」と伝えたら,飛び込みにもかかわらず快く巡回に加えさせてくれた。その避難所に居る高齢者たちは,膝や腰,肩,首に何らかの痛みを持っていた。治療というより,持参した貼付剤(アスリートエイド)とマッサージが一番喜ばれた。ここが痛いので貼ってください,腰や肩を揉んでくださいと年寄りたちが寄って来た。九州から来たと言うと,遠くからありがとうねえとおばあさんたちが逆にねぎらってくれた。

笑顔を見せて話してくれる年寄りたちが,一人の若い女性を紹介してくれた。笑顔がなく沈んでいるので,みんなで心配しているという。その女性の力になって欲しいということだった。その女性は津波の恐怖から今も立ち直れないでいた。私はただ聴くだけだったが,その女性が少しずつ話し始めた。彼女は,地震の後,会社の同僚たちと一緒に車に乗って逃げていた。振り返ると,津波が後ろから迫って来る。家も車も津波に巻き込まれて背後に化け物のように一塊となって迫ってくる。津波が怪物のように口を開けてすぐ後ろから迫ってくるのが見えた。もうだめだと思った瞬間に車が呑み込まれてしまった。

気づいた時には彼女は病院のベッドにいた。6人のうち,自分だけが生き残り,あとの5人は亡くなったという。その女性は余震の度に,事あるごとに,その場面を思い出し,震えてしまうということだった。私は,話を聴きながら,彼女の手を握り,心穏やかになる日が来ますようにと祈ることしかできなかった。


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